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論題はそこなのか?
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【2008/12/01 】   未分類      トラックバック(1)   コメント(3)
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け~ねたん今回は
動物愛護・自然保護
という似てる言葉について、考えようというわけですが・・・ まずは二つの定義みたいなものを・・・・
NOW PRINT二つを定義するために、
二つを同質化して考えている人がいると思うから、その違いを私なりに説明したいんだけどいいかな?
け~ねたんどうぞ・・・・・今回は聞き手なんで、サクっと
NOW PRINT動物の映像でライオンが草食動物を捕食することがあるよね?
でも、放送のテーマ次第で抱く感情がまったく変わってくる。
当然、ライオンをテーマにすれば、ライオンも他の動物を捕食して食べるしかないから捕食行動について問わないし、残虐とは思わないことが多いね。
冥王星まぁ、そうですね。ライオンを特集する番組ならばそうなるでしょうね。
NOW PRINT>一方、捕食される側の草食動物を特集する番組ではライオンの捕食行動に対して冷静に見ていられるとは言えないことが多いよね?
冥王星まぁ、子供さんとかは騒いじゃうでしょうね。
NOW PRINT>これは感情だから仕方ないと思うんだけどね。
自然保護・動物愛護という精神はそういう視点の偏りがあってはならない、と思うの
冥王星と、いいますと?
NOW PRINT>野生のキツネが野うさぎを捕食しようとしていて、冥王星君はどうする?
冥王星オイラはそれを放置しますね。自然淘汰の原則からしてもキツネが野ウサギを捕食してゆくのは自然なことですから
NOW PRINT>子供にそういう教育できる?まだ幼い子供相手だよ?
冥王星難しいですね。概念的に食物連鎖は分っていますが、捕食される動物のことを考える教育もするべき・・・というスタンスですからね。
NOW PRINT>そうだよね。でも、冥王星君は自然の原理原則というものを尊重する。
これは自然保護の視点なんだよね
冥王星え?どういうことですか
NOW PRINT>自然のあるがままの姿を尊重したから。
そこで行われた食物連鎖に介入しなかったから
冥王星ふむ。
NOW PRINT>でも、食物連鎖に介入しないことが正しいわけじゃないよ。あくまでもそれが自然保護の見方の話ね
冥王星では、人為的な災害によって動物の生命が脅かされるケースは?
NOW PRINT>それは人間が自然と関わって変質した環境であって、人間の責任があると考えることができるでしょ?
だから、そのケースの生命は可能なだけ人間の努力で守られるべきだと思う
冥王星つまり、自然保護と動物愛護は個体間の差別的な愛情を持たないこと、ということですか?
NOW PRINT>それもあるけど、「自然」のあり様を尊重した上で動物を愛せる気持ちだね。
冥王星自然破壊してまで存続してしまう動物は愛護の対象ではないと?
NOW PRINT>正直、そうとも言える。
動物愛護は時に自然環境を破壊することで他の動物の生態系を破壊することがある。
冥王星クジラ・外来生物とかですね
NOW PRINT>だね。人間の都合で持ち込まれ・保護された結果、生態系が破壊されちゃう事例は多い。
でもそれが一面の動物愛護という精神性に原因がある。
こういう言質は「動物愛護」否定とも解釈されるけど、私はそう思ってる。
冥王星姉さんはオイラと同じ動物愛護を嫌悪してますもんね。
NOW PRINT>嫌悪ではないけど、愛護という名の支配・束縛でしかないと思ってる。だから動物愛護は詭弁としか思ってない
でも自然保護は別。自然保護は総合的な地球環境まで想定した概念だからね。それで被害を受けるのはまずは人類・増えすぎた動物群などだから、私は仕方ないと思う。
冥王星そういう教育指導できます?
NOW PRINT>正直難しいね。
”「自然」って何かな?”
という永遠に解答できない問いかけを続けることによって、教育指導になると思う。
それを考えない人生もありだけど、それを考え続ける人生は非常に有意義だと思ってる。
冥王星君も「解答がない回答」という指導方法を否定しないはずだから、許してもらえるだろうけど
冥王星でも、動物の差別愛というのは「差別」からして難しい問題だと思うんですけど?
NOW PRINT>冥王星君はさ。人類の個体数の相対的増加については、危険視してるよね?
冥王星正直言えば、ヘンだと思ってます。
自然の一翼として人類が繁栄している現代において人類だけが繁栄を謳歌している現状は動物差別状況でしかないと思います。
はっきり言えば人類の行動の多くが自然破壊と何ら変わらないものとも思ってます。
NOW PRINT>冥王星君にとっての自然の姿というのは人類の現状からして違和感があるのよね。
でも、そういう見方ばかりじゃない。冥王星君のは人類自虐認知と言われるかもしれないね。
冥王星言われたっていいですよ。そういう認知があるからこそ、反面教師で自然保護の意識が出来上がってるわけですから。
批判したければどうぞ。少なくともそういう認知を否定しているくせに何もしない・何を考えてない奴よりはマシだと思うので
NOW PRINT>そうなる。
人類が存続できるのは自然環境あっての話だからね
冥王星えっと、もしかして
動物愛護の視点で考えると人類はどうあるべきか?
という命題がある、
という話にしたいんですか?
NOW PRINT>うん。そう。 人類も動物だからね。動物として特別扱いしていい、なんて根拠はない。 だから、動物愛護の視点では 「人類の個体数・生態について考えない」ケースは、ありえない
冥王星動物愛護のハードルって案外高くないですか?
NOW PRINT>これは私の定義だから・・・
単純に情動に流されてその場限りの愛情でも「動物愛護」と言うこともできる。
でも、それを正しいとは思えない。
冥王星なんか愛国心と似てますね。
世界的規模で自分の国のあり様を考えない愛国心は偏狭な動物愛護と大差ないように思えてなりません。
NOW PRINT>政治的な分野へ持ち込むのはやめてほしいんだけどね。
冥王星感情・情動的な愛国心は、クジラ保護運動と大差ないと思いますが?
NOW PRINT>教育学上のテーマのひとつである「愛情」というのはやはり、そのあり方を問われるわけで、それがガアペーではなくてもマイナス作用が大きくならないように留意する必要性があるね。
冥王星・・・・・・
NOW PRINT>イヤ・・愛国心とクジラ保護は似てるよ。
科学的見地を排斥している部分なんかは見事に一致するし、エゴイズムでしかない部分は一致している部分だからね
冥王星分ってますよ。結局は
思想信条の自由と表現の自由によって暴虐な思想も人類は特別扱いされることによって、正当化できてしまう、
という事実はね。
NOW PRINT>支配者たる人類が, 独裁者の如く君臨している現在、
人類が独裁者としてどれだけ聡明なる「自然管理者」であるのか?
それを問われていることだけは留意しておきたいね。

さて、次回は
「性と生殖活動」について・・・・
同性愛者への応援という置換になりそうな話を・・・・

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私大理系はどうなのか?
【2008/10/08 】   未分類      トラックバック(0)   コメント(4)
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 冥王星は、私大をバカにしている。
認めていないというよりも、評価していない。
昨晩ノーベル賞が発表されたが、またしても私大出身の学者はいない。
 理系部門のノーベル賞は最近の研究発表よりも、理論実態の証明が行われ、それが研究実態としての有用性を示すようになってから受賞される傾向にあるようで、比較的古い業績が後になって評価されるようだが、
それにしても、私大が一人もいない。
冥王星は一橋出身だが、いつも思うことに
「今後もこのような私大が世界的評価されない時代が続くのか?」
と考える。もっとも、戦後まもなくの私大なんてのは、学力よりも財力の世界であるし、優れた私大学生は結局は国立に行くのが現実だった部分もあるだろう。
 理系は特にその傾向が強いのは仕方ないが、文系のノーベル賞でも私大がいないのは笑える話である。
 大学差別といえば、その通りだが、ノーベル賞の評価の恣意性はあるにしても、評価の影響力は厳然としている。
 おそらく理系大学の私大は不振は続くだろうが、文系はそこそこ私大が食い込む時代がくるだろう。

もっとも、福沢諭吉を初め、明治元勲は理系的センスのない連中だったことは事実で、結局、慶応も早稲田も立教も法政も、世界に通じる人材を作れるような大学ではないのだろう・・・

私大のプライドというものを否定するつもりはないが、積み重ねられた教育の沿革においてポっと出の明治元勲の私立大学などは、所詮は烏合の衆ということだろう。

しかし、彼らは烏合の衆であるからこそ群れて行動し、自己防衛する。
そして、集団心理作戦という論理性もない言動で、対論者を圧倒しようとするから危険極まりないのだろう。
 私大批判として、仕方ないが、現実の評価は辛らつだろう。
私大出身の人にとって母校を誇る時の内容の陳腐さには嘲笑するしかないが、彼らは彼らの価値観で生きるだけで迷惑さえかけなければそれでいいのだが・・・・



支那とジャップ
【2008/10/07 】   未分類      トラックバック(0)   コメント(0)
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記事内のユーザータグ    中国問題       定義論       倫理   


冒頭からいきなりBGM紹介というのは、外道ですねw
くだらない記事なので音楽で中和してくださいw

支那という言葉の使用の是非論は各人に任せるが、参考サイトの弁明が如何に無意味か?というプレゼンはしておくべきだろう。
 「支那」は「中国」の蔑称であるという誤解が一般に広まっている。しかしそれは正しくない。国語辞典の「大辞林」(三省堂)は以下の説明を付している。
しな【支那】 外国人が中国を呼んだ称。「秦 しん」の転という。中国で仏典を漢訳する際、インドでの呼称を音訳したもの。日本では江戸中期以後、第二次世界大戦末まで称した。
 また、明治二十二(1889)年発行の「言海」という国語辞典では「支那」はないが「支那人」という項があり、以下のように「支那」という語の由来を解説している。

シナ-ん (名) |支那人| 〔支那、或ハ、震旦トモ記ス、印度ヨリ稱シタル名ニテ、文物國ノ義ナリと云、舊約全書ニSinoaトアルモ是ナリトゾ、或云、秦(シヌ)ノ威、胡(エビス)ニ震ヒシカバ、其名ヲ印度ニ傳ヘタルナリト〕唐土(モロコシ)ノ人、カラビト。唐人(タウジン)。

そもそも、日本語辞典は日本語の訳者・編集者によるものであり、明確な当事国の語源を採用しているとは限らないのは言うまでもない。

文中では
中国語の「秦」が梵語(サンスクリット語、インドの言葉)に入り、その言葉が仏典によって中国に逆輸入された時、中国人自身が「支那」と音をあてたのである。
という説明が行われているが、だから、「侮蔑語ではない」という説明はない。
 同時に
「支那」という言葉は、元々中国人の作り出した、まさに中国語なのであって、日本人はその中国語を借りているに過ぎないのである。
 なお、「秦」は英語に入るとChinaとなり、現在でも中華人民共和国の正式英語名称はPeople's Republic of Chinaである
という指摘も侮蔑語はないことを証明するものではないだろう。
では、逆説的に自国で使われている言葉であるから、侮蔑ではないという論調ならば、日本語の差別用語を中国人が使うことが許されるのか?という命題が突きつけられるだろう。
 例えば、日本海側を「裏日本」という呼称で侮蔑するが、外国人が使っても許すものだろうか?
日本語の時代的変遷で意味が変わってしまった「貴様」を外国人が使ってブチ切れる日本人がいないと言えるだろうか?
 上記のサイトの言動は、まったく「支那」という言葉を侮蔑と規定できない論拠になりえないことが分かるだろう。
 戦前の本を読んでみると、ほとんどの本はChinaのことを「中国」でなく「支那」と書いている。私は、当時の本を研究すればするほど、日本人は「支那」という言葉を侮蔑の意図をもって使い続けてきたのだとする説への疑念が、どんどん深まっていくのを感じる。
 中国を蔑視するような文脈はむしろ少なく、ほとんどはごく普通に、中華民国や中国大陸の通称として使われていたことが、はっきりと読みとれるのである。我々が「子ども」でなく「子供」と書くことに“差別的意図がある”なんて全く知らなかったのと同じで、当時の人々は、「中国」を「支那」と書くことが“差別表現”だなんて、全く知らなかった。中国を蔑視したくて「支那」と呼んだというよりも、「支那」という名前の方がより一般的だったので使っていた、ただそれだけのことだった。

 この文章にも大いなる欺瞞が含まれる。
 まず、当時の本を研究した結果の主観論でしかない文章であることがまず挙げられる。
 どれだけの本を参照してどれだけの割合で「シナ」という言葉が使われていたのか?
そして、一番問題と言えるのが
”中国を蔑視するような文脈はむしろ少なく、ほとんどはごく普通に、中華民国や中国大陸の通称として使われていたことが、はっきりと読みとれるのである。”
 まず、冥王星の読書量からしての比較として問題があるが、
「シナ」という言葉が使われるようになったのは江戸時代からである
これは、学術世界の「世界観」の広がりから、それまで「南蛮」、「毛唐」程度の外国世界の認証から、中国を「シナ」と規定し、地域の人民を「シナ人」と規定していたと解される。
 そこには、侮蔑的意味が存在しないというのは、多くの文章を見れば明らかだろう。
 しかし、幕末・明治という近代化において福沢諭吉の脱亜論を見れば、その侮蔑的視覚は、文章に明確化している。
脱亜論の全文から、侮蔑意識の象徴とも言えるものを明示しておく。
今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろその伍を脱して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。
惡友を親しむ者は共に惡友を免かる可らず。我は心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。

簡単に現代文化すれば
政治的に考えるに、日本国は文明開化・富国強兵をもって共同してアジアを盛り上げることはできない、逆にアジアを脱して、西洋列強と共に帝国主義の道を歩み、中国朝鮮という隣国に対しても特別に配慮することもなく、西洋列強のように接することでいい。
悪友(中国朝鮮)と親しくする国は、同じく悪友(ダメな国)である。私の信条はアジアの諸外国との関係を拒絶する。
 福沢諭吉は、アジア諸国の近代化で、地域ブロッグの安全保障を考えていたことは、比較的知られていない。様々なアジアの識者を慶応大学に招聘し、当事国人民による近代化の手助けを目論んでいたことは、著作に多い。
 しかし、このような価値観が当時の識者でも普通に存在している時代である。 
中国世界という狭い世界しか知らなかった過去の日本社会との決別は、明治の新時代としてはありべきイデオロギーでもあっただろう。
 それを加速化するのが、「支那事変」の数々であり、中国という実態像は過去に比較して落ちぶれたものである。そして、最終的には、日本は清国に勝利するのである。
 当然ながら、脱亜、西洋主義の亡霊に取りつかれた明治の識者・政治家が中国支配のために、国民にも「日本はこれだけ強くなったんだ!」というパフォーマンスを惜しまないのも当然だろう。
 そんな中、過去の中国という先駆者たる肖像が崩れ、自分よりも弱い連中として、侮蔑を込めるようになるのも分からないでもないだろう。
 このような社会背景からも、一般用語としての使用の意味から逸脱している部分は推測できるのである。
 それでは何故、「支那」という言葉をかように嫌がる中国人が多いのか。「ガイジン、ガイジン」とからかわれた外人が嫌な思いをするのと同じで、「シナじん、シナじん」とからかわれた中国人も嫌な思いをしたのである。
「外人」も「支那人」も元々は差別用語でなかったけれど、からかいの言葉に悪用するなら人を傷つけることになってしまうのである。

 どうも身勝手な解釈であろう。
外人を辞典で調べると
1 外国人。特に、欧米人をいう。2 仲間以外の人。他人。
とある、これがそのまま侮蔑を意味しないが、島国根性の日本人からすれば
”2.仲間以外の人”はムラの外の人間であり、村八分という論理から侮蔑の対象たりえる可能性は高い。
「侮蔑」というエモーションを証明することはできないのが一番の問題であるが、誰が「外人」は侮蔑の意味がないと断言できるだろうか?
また、日本では中国を公式には王朝名で呼ぶのが慣例であり、清朝時代には日本政府も「清」と呼んでいた。「日支戦争」でなく「日清戦争」という名前はそのためである。
 とはいえ、政府という区切りではなく地域・文化的な区切りでは「清」でなく「支那」が使われた。漢民族は「支那人」と呼ばれ、漢民族の言語である中国語は「支那語」と呼ばれていて「清語」とは呼ばれなかった。中国の王朝は同じ民族とは限らなかったから(漢民族だけでなく、モンゴル人の元、満州人の清などあった)、王朝が変わるたびに言語名を変えては大変なことである。この場合は「支那」が使われた。

 まず、大きな誤解があるが、漢民族という概念は、不明瞭である。金王朝・清王朝は漢民族ではないとは言えないし、そもそも漢民族という概念は、常に混血し変動している遺伝民族と言えよう。
 つまり、元王朝は別にしても、中華騎馬民族王朝の各部族は同化政策により漢民族化しているという認識論が妥当だろう。
 同化を拒否することを続けられたモンゴル・女真族は民族の慣習を死守し、場合では民族としての慣習を大衆に強制したこともあるが、その実態は非常に不徹底であり、実態はザルであっただろう。
 つまり、概念的に複雑な漢民族を理解するに「シナ」という用語がもっとも稚拙ながらも妥当であった背景がある。
 その背景で、日本人とアイヌ人をも同族化してしまう不適切かつ乱暴な用語として「シナ」が使われているに過ぎないだろう。
 つまり、漢民族という概念を理解できない文章であるという意味もあるが、シナという用語の内容の不適切さがこの文章には見て取れる。
さて、1912年の辛亥革命で中華民国が樹立した時には、日本は中国を「中華民国」とは呼ぼうとしなかった。(日本政府は台湾の中華民国政府と国交を絶って以降、今でも中華民国政府を「中華民国」と呼ぶことは決してなく、ニュースなどでも通称の「台湾」が専ら使われている。これに少し似ているかもしれない。[しかし台湾という言葉そのものは支那と同じく差別表現ではない])「中国政府」という表現はほとんど見かけず、「支那政府」と呼ぶのが一般的であった。また、中華民国樹立以降~日中戦争の時期、中国は様々な政権が乱立し内乱状態にあり、中国大陸内の複数政権を区別して呼ぶ必要がある場合は「南京政府」「武漢政府」「重慶政府」(日本の南京占領後の臨時政府は重慶にあった)などと政府所在地で呼ぶこともあった。しかし、政府に依存しない、中国大陸そのものの地理的な呼び名は「支那」であった。

 誤解される文面があるので整理しておく。
「中華民国」という呼称は使われなかったわけではない。外交文章でも明確に使用されているのであるのだから、「呼ぶことは決してなく」は間違いである。
「ポツダム宣言」の冒頭にいきなり
一 吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート、ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二 合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ聯合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
対華二十一ヶ条要求には「支那国政府」という記述があるが、
「中華民国」政府という記述は国際法条文の邦訳として多くに存在している。
 「冥王星は小惑星なり」で説明しているが、日本政府が現在でも「中華民国」という呼称を使えないのは、「中華民国」は消滅した政府であるという国際決議である「アルバニア決議」を踏襲するからにすぎない。
ところで、国の名前を通称や略称ばかりで呼ぶことそのものは、必ずしも差別を意味するわけではない。イングランド・スコットランド・北アイルランドを含む「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」は専ら「イギリス」「イングランド」「英国」と呼ばれてイングランドで代表されている。「ネーデルランド」は日本語で専ら「オランダ」と呼ばれ、「スオミ」は「フィンランド」と呼ばれている。戦前の多くの日本人にとって、中華民国を「支那」と通称で呼ぶのは、それに近いことであった。

 残念ながらも、差別を意味しないとも断定できようもない・
もっとも「差別」の定義がないこの話では、差別であること、差別ではない、ことも証明も出来ない問題があるが、
仮に、差別とは、
特定の言動を、相手が不快と思い、その意思を明示する状況、と仮定させてもらえば
イギリス人という呼称をアイルランド・スコットランドの人民が嫌がることはある。
彼らにとっての民族的アイデンティティは、擬似的単一民族には理解できるものではないだろう。
そういう環境にある日本人にとっての民族アイデンティティ意識は、無頓着であり配慮がないことは当然考えられる問題だろう。
 これは個人が、事象を簡単に考える堕落的思考性から生まれる誤解であり、その可能性を想定して言動する必要性があるのは言うまでもないだろう。
 むしろ、侮蔑用語とは、本人の意思とは別の意図で発生しうる問題であろう。
 それを例示しえるのがネット略語である「W」という表現である。
 英語では、笑うという語彙にはネガティブな意味合いは見られない。ドイツ語でも同じことである。
1:A wry smile  2:Self-mockery 3:Ridicule
これらは、「笑」が入る日本語の翻訳だが、わかるだろうか?回答は最後にするが
wのように、言葉は解釈者次第で危機的な状況を生みかねないものである。
 そこまで留意して言葉を使う配慮を日本語は必要としている言語でも言えよう。
 では、シナ、チョンという言葉を解釈者がどう解釈するか?
という問題は、「侮蔑語」であるならば、それは解釈者の問題として取り上げるべきだが、
シナ・チョンが侮蔑語ではないという断定は、この文章でもできるわけではない。
言葉は変容するものであって、解釈された語彙は語源から逸脱しようとも、解釈者の恣意的解釈がまかり通る危険なものであろう。
 日本語で「ら抜き言葉」が一般化したり、顔文字が流布したり、言葉が用途性を持ち意味を持つによる以上は、細心の注意が必要なのである。

 「ジャップ」という英語を侮蔑語と規定されている。
国名コードとして「JAP」は堂々と使われたが、国際社会は侮蔑的意味から「JPN」に訂正した。
この著者の主張では、「侮蔑的意味合いもなかったから」侮蔑ではない、ということだから、「JAP」と当然、忌諱してはならないだろう。
 しかし、著者はJAPを許容するだろうか?理屈からしても、JAPはもっと広い範囲で使われた言葉であり、世界的な容認のあった単語であるはずだが・・・・
 japはまだJapaneseの略語であろうことは推測がつくが、シナは想像がつかないものであろう。

JAPという言葉が正当化できる理屈よりも、根拠の希薄なシナという単語。
冥王星個人は、JAPと言われることは侮蔑とも感じないし、略語であり本位があることを知っている。
しかし、それが侮蔑と誤解する日本人がいる事実を尊重して、JAPを取り下げる理性の諸外国を評価するが、そんな大人の諸外国とは違うシナという用語使用者の配慮の無さは、日本人の恥としか思わない。
 そんな日本人をジャップ、ニップと言われようとどうでもいいし、侮蔑語の応酬をしていればいい。
語源や由来だけではなく、現代用語としての意味を尊重できない教条主義者の弁明などは、言語の本質を理解していない未熟な現代人としてしか評価できないだろう。
 もっとも、人の嫌がることをやることを責めているのではなく、自分が嫌でもあることをやる、という
「同害復讐」の世界観の人間を侮蔑しているに過ぎない。


冥王星は、デブは侮蔑ではないが、肥満体は侮蔑と解することを明言しておく。




「自殺する権利」を想う(改訂)
【2008/10/07 】   未分類      トラックバック(0)   コメント(0)
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「冥王星は小惑星なり」から転載・修正記事です。母体はこちら
音楽はこれでも聞いて退廃的に・・・読んでくださいw
東方紅魔郷より 「U.N.オーエンは彼女なのか?」

 「人が他人を殺す権利は存在しない。」
 例外的に正当防衛、緊急避難はあるが、それは暫定措置であり権利ではない。この程度は言うまでもなく理解されることではある。同時に「軍人」という例外もあるが、これは別のテーマであろう。

 では、自殺という行為はどうなのだろうか?
 JSミルの自由観は「他人に迷惑をかけない限りにおいて行為の自由は存在する」ことである。
ミルにおいては「自殺する自由」は認められることは困難ではあると思う。
 人は家族や同僚などの一定の対人関係を構築する。
 対人関係が一切介在しない人間は基本的には存在しないわけで、「自殺する自由」があるとは言い切れない。
 ただし、縁者もいない世捨て人においては、この自由はあるとは言える。対人関係を全て放棄して世捨て人同然になった個人は別だろう。

 「自殺する自由」はミルの自由観からすればないが、現代法では自傷行為を咎める実定法はない。あくまでも実定法はないだけで、交誼の法という意味では、自傷行為を咎める人間はいるだろう。
 問題は「自殺する権利」であって、その自由の論議ではないが、
多くの人間は、”「自殺する自由」はあるとは言い切れないという立場である”ということを感じる。
本当にこれが正しい姿勢なのだろうか?と未だに疑念が晴れない。

 では、アプローチを変えてみるのだが、「自殺をとめる権利」があるのか?という問題がある。
まず、この権利は、”自殺する”という行為の自決権、つまり自然法的な権利を否定するわけであって、100%肯定することはできない。
 自殺が「悪い」という思考回路はどうも理解しがたいものがある。
 動物はその生態系維持のために集団自殺を行うこともあり、生物の自然調整行為であるとも言える。(レミングの事例)
 そのような事実関係から人類だけ「自殺は許されない」というのは異様に思えて仕方ない。
 自殺を止めることは、”尊厳死の否定”に抵触することでもある。
 より当事者の充実した人生を模索して、尊厳死を受け入れるケースにおいては自殺を止める権利があると言えるのだろうか?
 死ぬ過程の人生において、どのようにその生命を終えるか?という自律的な問題は、他人に制約されるべきなのだろうか?
 
 日本においては自殺というものの理解は複雑になっている。
 士道において死は名誉回復に帰結するものであるのだが、その価値観は現代では亡失しているのかもしれない。宗教倫理で自殺を禁じているのだが、その理由は、自殺が逃避活動という理屈にある。
 しかし、死という選択肢は逃避であるという一面ばかりではなく、積極的側面を持ちえる。
 ”老人に死ね”というつもりはないが、現代社会で”ただ生きる”植物人間化した個人が自分に投下されるだろう財を”よく生きようとする個人”に回そうとする行為は、自己犠牲という側面・合理的資源分配という側面でもポジティブに判断されて然るべきだろう。
 まず、価値観において「命こそ一番尊いものである」という人がいる。
しかし、それは万人に通用する価値観ではないし、それを強制される謂われないはずである。
 士道を例示したが、一番尊いものは、家族や名誉であるという内心は、違法性があるわけでも公益性を否定するものではなく、ヘタすれば、公益性を多分に含まれることもある。(ちなみに、自分の命で地球の生態系が回復することが可能であるならば、自殺することはヤブサカでもない。日本のためにでは、この命は滅私できないが、世界規模なら考える)
 そもそも、「生きる権利」というものが個人に帰結するものであって、他者に制約されるわけではない。
 同時に「生きる権利」と言ってもその原点が自分の意志ではないわけである。
 自殺が逃避という批判が行われるわけであるが、
人生において逃避行動はしばしばあることであり、逃避行動を批判する当事者が逃避行動をしない人間であれば説得力もあるのだが、そうではないだろう。
 死ぬことが敗北であるというならば、必然的に訪れる死に抗うことは勝利なのか?・・・ナインであろう。
 同時に、「死にたい奴は病気」だという人もいる。
 では、最愛の人に死なれて自殺する人は病気なのか?という問題提起に回答しえないだろう。
 確かに安易に自殺することが可能であることは、社会性維持のためには避けるべきことである。
しかし、自殺することは安易ではない。その恐怖心に抗うことが出来る人は多くはない。その恐怖心に打ち勝った人間が自己の意思で人生を終えることにどれだけ労苦があったのか?そんなことは自殺批判者には考え及ばないものではないだろうか?
 似非ヒューマニズムで自殺を否定する人に聞いてみたいのだが、どれだけ自殺する人を理解した上での否定なのだろうか?
 同時に、自殺する権利はどれだけ存在しないのか?自殺を止める権利が存在するのか?
 
 未だに、自殺を肯定しきれない自分ではあるが、自殺を止める権利があるというのは、かなり限られた人間でしかないと思うし、第三者の無責任な自殺否定論はそれこそ、無為であろうと思う。
 
日本の刑法における幇助罪などに文句があるわけではない。
ただ、「自殺を止める権利の規定」は、理解ができないにしても必要な措置だと思う。
 国家という器は国民なしには成立しないように法律は構成員の相互契約の前提で存在するわけで、存在することにその前提を持ち出すことはできないから、なお更である。
 結局、自分のような自由主義者は、国家によって支配される側面を嫌うことになるのだが、これを明確に否定する論理は存在しないし、こちらの自由を強圧的に制約しない限りはこちらも抵抗はしないだけのことである。
 自由の根源の全てが国家に由来するわけではなく、フランス革命より現代まで受け継いだ自然権、自決権も法である。この感覚は現代人には希薄になっているのだが、否定するだけの論理性のある指摘は未だにみたことはない。

さて、冥王星個人として自殺未遂者との対論の機会を得ることができた。
 冥王星自身も未遂の部類であることを認めるが、
我々、未遂は自殺する感情を理解している当人ではある。
 しかし、未遂に終わったという結果論は、結局は「自殺」という結果論を残せなかったヘタレであると思う。
 つまり、未遂の我々の自殺感が
どれだけ自殺する心・意思に迫っているのか?という詰問に対しては、不信感がある。
 結局死ねなかったという未遂者で、「死なないでよかった」という感情が吐露されるが、それが正しいとは思わない。
 彼らは、自殺未遂という結果論によって新しい環境を得られたという側面がないわけではない。
つまり自殺未遂という結果論が、彼らの環境を変動させることになり、未遂という事実がない状態で、「自殺しなくてよかった」という言動ではない・・と考えることもできる。
 自殺未遂という結果論で得た「自殺しないで良かった」という感情論に過ぎない、とは言いすぎかもしれないが・・・・・

 ある自殺志願者と語らったことがあり、その人の話は簡単にいえば
自殺を否定する人間は、自殺願望を理解できるはずはない。その自殺願望は個人差があるもので、それを理解することは不可能。
そして、自殺を否定する人は、自殺することの道徳性を説くにしても、その道徳性は当人だけの人生観に基づいたものであって、自殺志願者の価値観とは相いれないものであることも考慮のない。
 価値観の違う個人の相互の自由の尊重は、お互いの価値観の相違を認めることに始まるはずだが、それをしない自殺否定論にどれだけ価値観を語られても自殺志願者の意思は揺らがないだろう。
 それは、自殺志願者が意地を張っているというよりも、否定論者が己の価値観を前提する論理を展開しているという意地を張っているから・・・・・・・・
とのことである。
冥王星は分からなくもない。
決して自殺を擁護するわけではないが、自殺する人間の意思を他人が理解できるものではない。
そして、自殺する自由は、日本の国内法にはあると解されても問題ない。
 一方、人としての法で、自殺を否定する価値観は、あくまでもエゴイズム・教条的であるという分析も可能であることを理解してほしい。


八百長でいいじゃないか
【2008/10/06 】   未分類      トラックバック(0)   コメント(1)
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八百長でもいいじゃないの?
ガチンコ相撲だって信じてないし、神事なんだから
一人相撲って言葉を考えてみてもいいんじゃないの?
スポーツはガチンコ前提だと思ってる人が多いようだけど、それってスポーツを理解してない人。
競技指導しながら行われることだってスポーツになるだろうに・・・
八百長がダメなんて誰が規定してるのかな?
むしろ、八百長が許されないという根拠が知りたい。
それで係争してないんだけどw





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