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優しさ・寛容さ
【2008/11/28 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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記事内のユーザータグ    倫理       民主主義考察       定義論   

 
「優しい」「寛容」

同僚が私を評して言ってくれる言葉です。
同僚から見れば私は「優しい」「寛容」な人に見えたのでしょうが、私はこの評価が怖くありました。

友人は決して私を「優しい」「寛容」とは言いません。私も自分自身をそのように思ったことはありません。
むしろ私は「厳格」「厳しい」人でありたいと思っています。

なぜ同僚が私をそのように判断したのでしょうか?
その理由を精査してゆく過程で「優しい」「寛容」という言葉が酷くご都合主義的な意味を持つことに気づかされました。

何も期待していない人がどんなに失敗しようが、怒りもしませんし、怒鳴りつけたりしません。
それを第三者は「寛容」「優しさ」と解釈してしまったのです。
確かに、それは一面からすれば、「寛容さ」「優しさ」かもしれません。
しかし、本質的にそれが「寛容さ」「優しさ」ではなく「無関心」「無関与」であろうとする姿勢の結果論に過ぎません。
それですら「寛容」「優しさ」と判断できてしまうのです。
逆に期待している人に対して「冷たい」「厳しい」というような第三者の指摘を受けることが多々あります。
しかし、それは期待する人であるがゆえの「関心」「から来る探究心・愛情のような側面があります。

優しさ・寛容さ、というものを評価する視点が難しいと思えてなりません。
愛情ある中で我慢することが必ずしも優しさ・寛容さではないことも同じことです。
そうやって、考えてゆくと人に厳しい人の方が本当に人間的に素晴らしいような気がしてなりません。
本当に単純に厳しいだけの人もいるかもしれません。
寛容さ・優しさがない人がいるかもしれません。

しかし、相手のためを思っている「優しさ」「寛容さ」というものを第三者がどれだけ評価できるのでしょうか?
よほど、自分をよく知ってくれている第三者でないと「優しさ」「寛容さ」を見抜くことはできないように思うのですが、考えすぎでしょうか?
冥王星さんが
”甘いだけの優しさ”
”無関心であるからの寛容さ”
という言葉をよくよく投げつけます。

私自身が優しく・寛容に思われた時点で危険な対人関係の状況を確立してしまったようです。

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「残念」という日本語
【2008/11/02 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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 「残念」という日本語に関して、素朴に思うことなのですが、
「念」を「残す」という漢字構成だと思っています。
ここでいう「念」というのは、「気持ち」という意味だと曲解しますが、
「残念」という言葉は簡単に使っていないでしょうか?
 「気持ちを残しておく」という感覚が「残念」という言葉に感じないのです。
簡単に「残念だった」という人がいますが、「残念」といいながら
心は残さずにそれっきり

という感覚に囚われます。

「遺憾」という言葉が、反省の意味がないという批判もありますが、これは「残念」よりも”心を残す”意味が強く感じますが、如何でしょうか?

日本語の成り立ちや意味を深く追求するとどうしても私は、残念という言葉が軽く感じてしまうのですが・・・・・・・・・深く考えすぎでしょうか?

冥王星さんも変わった問題提起で
「さようなら」という言葉に関して違和感を抱いていました。
冥王星さんいわく別れの挨拶では、
「再び会う」ケースと、「永遠かもしれない別れ」では区別する方がいいと感じるようそうです。
英語では「SEE YOU AGEIN」
中国語では「再見」
という別れの挨拶は、「再び会う」という想定での別れの挨拶です。
日本の「さようなら」は死出の別れでも使われる悲しい挨拶だから・・・・・・・

フランクな人間関係では、「またね」という挨拶になりますが、距離をおいた人間関係の挨拶では「さようなら」になります。
これが冥王星さんには堪らないそうです。

なんとなく分からなくも無い話です。

私は冥王星さんほど感受性が豊かでもないので、違和感をスルーしてきましたが、このような言葉の貧しさは日本語にもあるように思えてなりません。

この話をした後、私も意図的に「さようなら」は使わなくなりましたが、不便です。

こんなことをいう冥王星さんですが、プライベートではズボラな性格もあって
「ごきげんよう」
というもっとも多様性・汎用性のある挨拶で済ませることもあるそうです。

だから私ももっとも、使いやすい挨拶の

ナマステ

を使って絞めたいと思います。

ナマステ~


[
【2008/11/02 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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テーブルマナーとマナーの心
【2008/10/15 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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 先日フランスのアビニョンのフレンチレストランで会食した席のお話です。
高級感の漂うAというお店。
敷居の高そうな豪奢な内装・壮麗・秀逸な中庭など贅沢を尽くしたレストランに
私と夫は招待客という立場もあって、狭苦しい感じを受けました。
席上は高等教育の学術研究者・現場の教育者など総勢7名ほど。
レストランは比較的大きく30席ほどのゆったりとした格調高い雰囲気が威圧感さえ放っていました。

正直、私はフランス料理がいつになっても好きになれません。
私の言う好きになれないフランス料理というのは、形式ばった宮廷フランス料理のことで、フランスの家庭料理のお話ではありませんので、誤解しないでください。

私は定年を迎えた夫を初めて海外に連れ出し、海外で初めて二人で会食という非常に経験のない状況でした。
私はまだテーブルマナーは一通りできますが、夫の方は、そういう世界は全く無関係だったこともありまして、同伴したことを多少後悔しました。
 それでも、夫婦同伴という暗黙のルールがこういう世界にはあって、初めてでも夫を同伴できることの喜びもあって、少し勇み足で夫を連れてきてしまったことを後悔しました。

同席したのは、
バリバリのフランス人(悪い意味でいえば生粋のフランス右翼)のご夫婦
現場あがりの温厚なフィンランド紳士・同じく現場あがりのベルギー人婦人。

夫は昔かたぎな人という部分もありまして、急遽テーブルマナーは教えましたが
いかんせん、にわか「テーブルマナー」
私の様子を見よう見真似で追っかけますが、職人の器用さとテーブルマナーの器用さは別物だったようで、失敗の連続。

それを見たフランス人夫婦はかなり不機嫌。
私としても夫に恥をかかせてしまったこともありますが、情けない気分になったのですが、
連れの現場あがりのフィンランドの方がフランス語で

「旦那さんが窮屈そうにご飯を食べている姿は、不愉快というよりも、勿体無い気持ちになります。
テーブルマナーでガチガチになって食事を頂くことは、マナーとしては当然という人がいますが私はそうは思いません。」

それに対してベルギーの婦人は

「ご飯は美味しく頂く礼儀があるはずです。周囲への配慮からテーブルマナーが生じたようですが、
そのテーブルマナーが”周囲にとっての不快の原因”になるなら、テーブルマナーよりも重要なマナーがあるのではないでしょうか?」

お二人の言いたいことはなんとなく想像はできます。
しかし、フランス人夫婦は、やはり「テーブルマナー」の前提について意見するような姿勢は崩していません。

私は、「テーブルマナーを尊重するべき」というマナーを否定しません。
しかし、お二人が述べたように「テーブルマナーの目的」という問題提起も重要だと思うのです。

なんなく気まずい雰囲気に対して、お二人は連続して、フランス人夫婦を焚き付けます。

「食材に対する感謝の心は、我々が食べる行為で成立するものです。
そして、ただ食べるのではなく、美味しく頂くことで感謝する心が充実するのではないでしょうか?
それは食材に対しての話でもあり、調理したコックさんたちへの感謝の意味も含まれるはずです。
硬くなって美味しい料理が美味しく頂けなる不幸は残念で仕方ありません。」

「お二人(私と夫)はゲストです。
この店は高級店で客にもそれなりの配慮を求める店ではありますが、従業員は彼(夫)の失態に目くじらを立てるようなことはしません。
その理由は、その程度のことで場の雰囲気を壊したくないという配慮でもあるでしょう。
お二人には大変不愉快とも思いますが、些細な形式的なマナーが味の本質に影響するものではないでしょう。あなた達の心の余裕の問題であり、私は、ゲストである旦那さんをもてなす意味では、テーブルマナーを重要視する時ではないと思います。」

私と夫のせいで・・・という気持ちもありましたが正直な感想を言わせてもらえば、
不調法な夫でもフランス料理を食べる資格もありますし、何より料理の素材を作る仕事をしてきた人間です。
そんな夫でしかも初心者にテーブルマナーを押し付けるようなご夫婦の姿勢を尊重する必要性はどれだけあるのか?という気持ちになりました。

フランス語の分からない夫は険悪な雰囲気を察して錚々のないように振舞うので精一杯だったのです。

険悪なムードもなんのその・・・高級店のシェフは、客席に挨拶するのが相場なのか?
我々の席上にきて、ご挨拶を

私もこういう経験がないので、黙るしかなかったのですが
シェフがうちの夫を見つけ駆け寄ってくる・・・・・・・・・

フランス語の分からない夫に通訳するのだが、どうやら夫の作ったズッキーニを長い間使っていたそうなのである。
夫は農家ではなく種の研究をしている人間なのだが、夫の作ったズッキーニが非常に世界各地の調理場で使われているらしく夫は有名だったらしい。

そんなことを知らない夫は、ただただ恐縮しているだけだったのだが、
一言だけ
「花ズッキーニを使ってもらえるとありがたい」
という意味の言葉を伝えると
ウヤウヤしくシェフは調理場に戻り、ズッキーニの花(「花ズッキーニ」というそうだ)と旬野菜の小品が出されてきた。

今度は、シェフ一人ではなく、シェフ3人とグランドシェフ(総長料理長)という面々でテーブルにきて
小品を彼らが盛り付けるという惨事?に・・・・・・・

どうやら、高級フランス料理店であろうとも、食材への感謝の心は当然らしく
夫は国賓のような扱いを受けた。

最後には、花ズッキーニの小品が全テーブルに饗応され、夫は有名人に・・・・


そこでなんとなく私はシェフとグランドシェフに
「料理する側としては、テーブルマナーをどう思うか?」
という趣旨の質問をすると

「テーブルマナーはお客さんの間で生まれた会食空間での『決まり』です。
その決まりにシェフという立場で意見することはできませんが、
そのような決まりのために、食事を楽しんでいただけなくなるなら、そんな『決まり』はいりません。
でも、この意見はシェフとしての意見ですから、お客さん同士でのマナーの問題である以上は、私達が口を挟む問題ではありません」

とのこと。
職業人としての本分を弁えている職人らしい回答。
それに対して、グランドシェフが

「この店は、私がオーナーでありグランドシェフです。その立場から言わせてもらえば、
テーブルマナーを尊重したいお客さんには、個室をお勧めするように指導してきました。
おそらくその旨も口頭でお伝えしたはずです。
会食の場として身分も差別もなく美味しく召し上がってもらうための工夫はしますが
テーブルマナーを強制するような工夫は一切したことはありません。
ここはそういうお店です。
それが尊重できない方には、当店以外の格調高い紳士・淑女たちの会食の場をご紹介しましょう」

と・・・・・・

「是非にお二人にご紹介してください」

と皮肉たっぷりのベルギー婦人

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヤバいなと思った瞬間に夫が

「不調法な男ですみません。
自分は皆さんの問題にしているマナーを損なったかもしれません
でも、私はそれ以外のことで皆さんを不愉快にしていないと思うのですが如何でしょうか?」

と・・・・・・・翻訳しておいて私もふと夫の問題提起を考え直してみれば確かに夫の言う事実関係は重要かもしれない。

夫は、テーブルマナーが出来ない。しかし、出来ないことを努力しようとした結果は残っている。
一方、口論になりかけたご夫婦とお二人は、感情的になってしまったという失点は批判の余地は大きい。
つまり、夫は過失姓の部分で他の誰よりも、情状酌量の余地があるのである。
慣れない環境で懸命に相手を不愉快にしようと心がけた夫。

テーブルマナーに固執して、本当の意味での食事のマナーを逸脱したご夫婦と現場あがりのお二人

結局は、一番夫が許容されうるマナー違反だったのである。

そして最後の皮肉をシェフの一人が・・・・・・

「テーブルマナーの由来は、一人の料理人があまりにも酷い食事風景に失望して、マナーブックを作ったことから始まります。
そのマナーブックそのものは万国共通ではない部分が多いことを当人が認めています。マナーとは”心遣い”と記述されています。
自分たちの感情を吐露されただけのみなさんと、周りを配慮して黙っている○○さんのどっちがマナーを理解しているのか?
私から結果を言う必要性がありますか?」

と・・・・・・・・・

その後、夫のおかげで一品おまけがついてきたことを喜びつつ、なんとなく全員で謝ったわけですが・・・・・・・・・・

当の夫は、「足りない」と愚痴ったことで
その後、フランス家庭料理の店で二回目の晩御飯となりました。




ペットを飼う責任の重さとその範囲を考える
【2008/08/27 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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(2007年1月抜粋)
 私が納得できないこととして、動物を飼うエゴを考えてしまう。
 人類の発展と動物は密接な関係にあるが、今の人間と動物の関係は、昔のものとは違う。
 昔の動物と人間は相互互恵(相互依存)関係であり、見事な利害関係のある共存関係である。
しかし、現代の動物と人類の関係は、相互依存という色合いが少ない。
 愛玩動物として飼われるペットは生来の生態系から離れ、見世物扱いされ、運が悪いと捨てられる。
 昔の動物に人間の共存関係は現代ほど希薄ではないだろう。
 犬を事例にして考えれば、
狩猟採集時代の番犬は人類の安眠と安全を保障し、その代替として犬は人類の残飯を得ることができた。この背景には、個体維持できない狼が人類と新しい道として共存という進化を進んだわけであり、共存関係からの自然的な進化というべきだろう。
狩猟犬・番犬としての用途性で進化した犬は見事に人類との共存を糧に進化した動物だろう。
同じことは、牛、羊、山羊、猪(=豚)、鶏、アヒルなどにも言える。
 ”愛玩動物がダメという”のは狭量な価値観との批判が免れないが、
愛玩動物にしても、飼う側としての責任を感じるべきだろう。
 
 さて、飼い主の責任に関しての話に逸れたいのだが、
 
 ペットアレルギーの人にとっては、動物はつらいものがある。
 一方、アトピー、アレルギーという病気に関しては、様々な未知の部分が多く含まれており科学的検証の難しさが言われている。
 しかし、ペットが原因だと特定できるアレルギーが多々あるそうだ。
 そこで考えてしまうのが、「ペット感染によるアレルギーの医療保険の適用」である。
 ペットを飼わない側からすれば、ペットを飼うことによって発生した病気に医療保険が使われることに不満がある。
 愛玩としての動物は、生活において必要性のあるものではなく、むしろ贅沢だろう。
 ペットが食べる餌で飢餓で苦しむ人類の多くが救えてしまうことを考えると、むしろ、ペットに税金をかけるべきだと思う。
 その上、病気を持ちこんでしまうペットの存在と、その飼い主のアレルギーに保険が使われるのは、納得できないのである。
 私は愛玩動物としてペットを飼うことは罪悪だと思える。(以前、冥王星との対談があるので参照されたし)
 その愛玩動物は、その飼い主に飼われない人生である方が、幸福だった可能性が高いだろう。
 野垂れ死にしたかもしれないが、それがその動物の運命であり、それを受け入れるしかないだろう。
(動物の幸福を人類の価値観で論じている危険性があるが)
 飼われることも運命だろうが、動物の命を支配してしまう「ペットを飼う」という行為に対する意識は、もっと高くあるべきではないだろうか?

 「ペット税」までは言わないが、ペットが原因になる問題に関しては、飼い主の責任を明確化するべきだろう。
 そして、ペットが犯した罪は飼い主が全面的に背負うべきだろう。

 そこまでの責任感のない飼い主に、動物の命、人生を支配する権利はない
と思うのだが・・・・

 具体的に言わせてもらうと、「愛玩動物税」というものを提言しておきたい。
文化施設たる動物園や動物を糧にするしかない産業などの動物は例外として、愛玩である動物には税金を課す。
 税額は、その動物が消費する年間熱総量で算出する。
 
他にも、愛玩動物が媒体になったと思われる病気に対しては、医療保険の適用外とするなどの必要性があるだろう。
(アニマルセラピーなどの「やむえない事情」を考慮するべきことも多少あるが)
 「この食糧不足の時代に、ペットを飼うなど」とは言わないが・・・・・・・ペットを飼う権利に対する責任を負うべきだろう。

 飼い主にはつらいだろうが、飼われる動物が愛されるようになるためには、覚悟と責任のある飼い主である必要性があり、フルイにかけることも動物の幸福に繋がるのではないだろうか?



「動物の権利」を想う
【2008/08/27 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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(2007年1月分抜粋)
 動物を飼うことが、人類の発展に大きく寄与したことはほぼ間違いない。
その共存していた人類と動物の関係の変化が弊害を発生させる問題である。

 具体的に、動物の権利(animal rights)という概念の発展から考える要素があるだろう。
「動物の権利」は人と等しく動物が幸福に生きる権利があると叫ばれるようになった。
簡単に概略を説明すれば
ピーター・シンガーが1975年に出版した「動物の解放」(ANIMAL LIBERATION)をきっかけに、世界中に広まる。
シンガーはその著書の中で動物は苦痛を感じる能力に応じて、人間と同等の配慮を受けるべき存在であり、種が異なる事を根拠に差別を容認するのは種差別(スピーシズム)にあたるとした。
さて、この考え方は哲学的な見地から様々な視点で論じられているので、いくつか抜粋する。
 ジャン=ジャック・ルソーは、『人間不平等起源論』(1754) の序文で
人間は「知性と自立した意思を欠いた存在」でこそないものが、出発点は動物である。
さらには動物は感覚を持つ存在であるため、「自然権を持つものに含まれるべきであり、人間は動物に対して責務を負っている」
従って「無益に虐待されることのない権利を有するものである」
 ルソーの動物の自然権の問題は、自然権が生来ものであることを前提にしている。
しかし、現実の権利は、コモンセンス・合意形成によって創造され実行力を持っている。
動物の多くが合意形成を行い、ムレ社会のルールを作れているわけではない。(作れる動物も多々いるのは別記する)
ジョン・オズワルド(John Oswald)は『The Cry of Nature or an Appeal to Mercy and Justice on Behalf of the Persecuted Animals』の中で
人間は生まれつき慈悲と思いやりの心を備えている。
もし自分が食べる動物が死ぬのを見なければならないとしたら、ヴェジタリアンになる人は今よりはるかに増えるだろう。
しかしながら分業が発達したために、近代の人間は生まれつきの思いやりの心を起こさせることなく肉を食べられるようになる一方で、残忍な行いに慣れていった。

この指摘には否定的になる。ト殺業を営む人がベジタリアンばかりならば
「思いやりからベジタリアンになる」と言えるだろうが、ベジタリアンは職種業種を選んでいるわけではない。そして、この「生まれながらの思いやり」というのも非常に疑問がつく。性善説的価値観を前提にした論説であることは言うまでもなく問題視されるだろう。

他にも多くの哲学者が動物の権利を規定しようと試みている。
多くの主張は確かに、説得力を伴うものだが、動物に対する科学的見地が十分にあるわけではないだろう。

動物の権利を否定するような指摘を行っているが、問題はその権利の射程だろう。
盲目な動物愛護団体が、生態系崩壊に繋がるような保護活動に走ってしまったような事例は多い。
人類含めて、地球環境は食物連鎖で成立している。人類は一面で食物連鎖から離れているが、雑食性の動物であっても食物連鎖の影響は必ず受けるのだから、留意する必要性があるだろう。
 いかにバランスよく動物と共存するべきか?という問題で動物の権利を考える必要性があるだろう。
 スポーツハンティングの是非論も問題提起されることがあるが
もし、そのハンティングで得た食物を摂取するならば、それは批判されるべきではないだろう。
動物は「無駄に他の動物を殺さない」という考えで娯楽のための殺傷行為は問題視されても仕方ないだろうが、それが食物連鎖的な意味合いを持つならば、全否定する必要性を感じない。
 結局は、動物の権利とは、盲目的に動物を愛すことではなく、自然界のバランスを含めて、公平に生物を愛する姿勢というべきだろう。
 クジラの保護活動でクジラだけ増えて、生態系が崩壊したり
 バスフッシュングがしたいために湖沼の生態系を破壊したり
結果的に他の種の生態系を崩壊させた動物愛護精神の反省は必要なのである。

 
さて、一方で矛盾している話をするが、動物の絶滅という問題は、本当に危惧するべきである一面だけではなく、自然淘汰の原則では「仕方ない」という表現が妥当な部分も多い。
 現在でも多くの動物が生きているが、地球誕生以来、多くの種類の動物が自然淘汰されてきた。
地学的知識のある人なら知っていることだが、カンブリア大爆発などを契機にして、種は爆発的に増え、現在の生態系に落ち着いてる。
 人類が地球を支配してから、多くの動物が絶滅したと言われるが、繁栄する種の影で絶命する動物が増えるのも当然の話である。
 過去隆盛した恐竜と呼ばれる動物の繁栄の陰で多くの動物が滅亡したはずである。
 その滅亡した動物の総数は今の科学では分からない。
もしかすると、恐竜の繁栄は人類の繁栄以上の種の絶滅の原因になったかもしれないのだ。
 そう考えると科学的検証のない動物愛護活動は感情論の産物というべきだろうか?
 そして、最終的には動物に対する差別愛になるのではないだろうか?
 私は、人類以外の動物は等しい価値だと思っている。そこ低俗、高度さなどの差別化を見いだせない。人類だけで特別扱いしているという批判を覚悟の上で、動物の権利を考えるべきではないだろうか?


チベット問題は続いている
【2008/08/15 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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モダンタイムスです。
冥王星さんにお願いして、15日にUPされるように記事を作成しました。
今回は、チベット活動家のある人のお話を交えて、チベット問題に向き合うべき姿勢を問い直したいと思います。


知り合いのチベット自由解放運動の活動家が中国当局に拘束された。
4年前、チベット解放に関するセミナーで私と冥王星さんの討論相手がその拘束された活動家である。

古くからチベット問題は日本では注目されていました。
特に、嫌中国派と思わしき方々は盛んに中国批判を繰り返してきましたが
それについて、その人は酷く落胆した言葉を吐いていました。

モダンさん・冥王星さんのお二人と私では、チベット問題に関しては大きな見解の違いがあります。
それでも、二人は私達の気持ちをよく理解してくれている。理解しようとしている。

残念なことに、私はチベット解放活動を通じて痛感しました。
チベットに関する問題で海外の活動家の多くは、私達の気持ちをまったく理解していないことが分かりました。
彼らにあるのは、まず「中国が問題」という発想から来るチベット擁護の論理です。
逆に対論する側の方が、よっぽどチベットの現状への理解が深いことが多いです。

その理由は、関わってきた期間・知識の問題もあるかもしれないですが、
結局、我々に向き合っているのは、お二人のような人だけと思います。
私達とスタンスの違う方は、もっとも我々を理解しようとしていることは皮肉なことです。

私以上に過激な活動家批判をしていた冥王星さんを彼女はこう評していた
彼は、チベット人個人の権利について具体的にどうすることがBESTなのか?という問題を常、長期的・具体的に考えている。
ただ『チベットに自由を』と叫んでいる活動家よりも、将来のチベット人のためを思っていることが分かるから、嫌えないんです。
彼は、『チベット人民の自由』の前に、チベット人がチベット人であるためのアイデンティティの問題まで考えています。
意見の違いはあれでも、表面だけでチベットの自由を論じている人よりも、彼はよっぽど知識・覚悟・責任感をもっていると思います。
例えば、彼が指摘したチベット人とチベット仏教の関係、チベット仏教とチベット諸部族の問題。
一部の活動家は、冥王星さんやチベットの中国分離への危険性を論じている人の反対論に対して、対抗できないのは事実だと思います。
活動家の置かれた立場は、まず「チベットの中国分離」が目的であり、「チベット人の幸福」というのは目的ではない状態になっているように思えてなりません。
それでも、私は「チベットの自由」からチベットはチベット人になれると思うから、活動を辞められません。

拘束されてから彼女のメールを見て思い出すことが、彼女の活動家として理性である。
彼女は、最後まで冥王星さんと同じくして、聖火ランナーの妨害活動を批判し続けたし
デモに関しても、大使館、国会前などの主張先として妥当な対象を選抜してデモ行動していた。

冥王星さんが彼女に、
”大使館ではなく五輪大会に対する恫喝行為に走った活動”について詰め寄ると彼女は素直に非を認めた。
(彼女がトーチリレー妨害の活動家を制止する側に廻ったことは後で知ったことであるが)
同時に、彼女は長野でのトーチリレー妨害活動をテロと同質とも認めたことは彼女なりの理性なのだと思う。

おそらくであるが、彼女は冥王星さんをもっとも評価していたかもしれない。
それでも彼女が活動を止められなかったのは、何らかの情念なのだと思う。

一番直近のメールには
リンピック開催前はあれだけチベット問題を取り上げた各国メディアも、オリンピック開催と同時にチベット問題を取り上げることはしなくなりました。
仲間内でも期待していた日本の世論も活動家もまったく姿を見れない。
結局は、他国の国民にとっては、チベット問題の騒動はお祭りに過ぎなかったのでしょうか?

二人が指摘した”引き潮”のようにチベット問題は忘れられる、という皮肉が現実化している現状を
放置したくありません。


このメールが送信されて7日後、彼女は中国当局に拘束されました。


冥王星加筆

 彼女との面識は大学時代まで遡る。
 歴史マニアの自分にとってチベットという地域はとても魅力的な未開の地である一方で、
もっとも、歴史理解の進んでいない地域という意味での興味があった。(東南アジア地域などの歴史が大好きでもあるw)
残念ながらチベット自治区に行く機会はなかったが、問題になっているウイグル自治区には行った事がある。(チワン族自治区も)
 浅からぬ縁だったが、彼女にはかなり酷いことを言ったことを記憶している。
自分はその発言を後悔していないし、それに反論できないことを彼女は認めたことに、お互いの進展があった。

言うまでもないが、冥王星個人は「チベットは中国の一部」としてしか論じれない。それについては、彼女も最終的には
「チベットは独立国家である」という持論を棄却することになったので、こちらとしては満足している。
そして、彼女はチベット解放活動家でも数少ない「ダライ・ラマの政治主権を認めない派閥」である。
これについては、様々な部分で彼女とは一致を得ているので、冥王星自身は彼女のような理性ある活動家を評価している。
そして、今回、五輪開催中にも関わらず、デモ活動を行ったことに敬意を持っている。

国際世論が一時的にチベット擁護論の過熱の時節を迎えたが、その後、活動は萎んでいる。
彼女がくれたメールを思い出すと二つの指摘が強く残っている。
五輪開催してからの海外のフリー・チベット騒動の収束化
チベット人のためのデモではなく、中国を嫌悪しているだけの抗議活動


この二つについては、予言めいたことを指摘しておいたこともあって、ショックではなかったらしいが・・・・・

去年の10月に訪日した際に、言われたことを思い出す。

私達のやってることは、私たちにとって本当に必要なことなのか?
という質問の解答はできません。
解答にならないと思いますけど、本当に必要なことだと信じて行動しています。
ただ、私は冥王星さんの危惧に対して一つ回答できるなら
冥王星さんの言う通り、中国の影響力のなくなったチベットが大混乱に陥るとしても、それでいいと思います。
その結果が世界に多大な迷惑をかけることだとしても、私の人生は私が決めることができるはずです。
だから、活動の結果、自分や周りが不幸になってもそれを悔いることはないと思います。

英文の彼女のメールを正しく翻訳できている保障はないが、概ね間違いだろう。
トランスレーターにかけたが、うまく翻訳できていないので、自前の翻訳を乗せた

最後の「私のことは私が決める」という自決権という正統性の前で、どうにも説得しようがなかった。
彼女が違法性の低い抗議行動を優先する限りは、デモする権利(抵抗権)を否定することはできない。

しかし、冥王星にとって御しがたいのが
彼女のような違法性を留意している活動家が拘束されて
まったく中国当局との関連性のない五輪イベントに対するテロ行為を働く人間が、平然としている世の中が異常としか思えない。


しかも、そのような輩が活動の安っぽさに比べて、彼女らの活動は真に迫っている

まるで「お祭りのように騒ぎ立てる似非活動家」と彼女のような活動が一緒にされるような現状がどうしても納得できない。
チベット救済という情熱ではなく、単なる中国嫌悪の活動でしかない連中と彼女は一緒ではないはずだ。
単なる中国嫌悪の連中と対抗する必要性があると冥王星は思っている。
彼らは単純に、中国が嫌いなだけで、チベットに関する知識もチベット人に関する接触さえロクにない。
そんな連中が語るチベット論よりも、まだ彼女に信用された冥王星の持論の方がマシだと思っている。

中国憎いが目的化した連中と、チベット救済を目的としている自分や彼女の方がチベット人を考えていると自信を持てる。
過信に過ぎないかもしれないが、彼女も首肯してくれるだろう。

具体的に中国当局に働きかけるための活動を現在探している。
彼女は中国国民ではないので、母国がある程度の活動をしてくれると期待するしかなさそうだが・・・・

五輪騒動でチベット問題を忘れている人は多いと思う。
彼女がチベット問題を思い出して欲しくて、デモ活動したとは限らないが、
これを読んだ人には、是非思い出して欲しい。
同時に、もし、チベット問題に対する意識があるなら、今現在で出来ることを模索してほしい。

スタンスは違えど、冥王星はチベット人の幸福を冥王星の考えなりで願っている・・・・・
彼女が早く解放されることを切に祈る。


モダンタイムス追記
 
冥王星さんが言う現在出来ることとは、過激な活動家の論理を批判し、理性あるデモ活動にすることだと思っています。
そして、チベットの政治代表権がダライ・ラマにあるような幻想を打ち破って、チベット人、チベット地域にいないチベット民族、チベット諸部族の合意の得られる体制樹立の手助けをする必要性があるのではないでしょうか?


中国産ウナギ
【2008/07/27 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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 テレビによると、7月24日の土用の丑の日では
「国産ウナギ」が「中国産ウナギ」を圧倒したそうです。
 食品表示偽装問題で、”「中国産」が「日本産」と偽装された事件”が発生した影響でしょうか?
 実際のところ、安全性は疑問視されるのは分かりますが、形式的に日本と同じ検疫基準を通過しているのは、厚生省のHPからも確認できます。
あくまでも法定基準をクリアしていることは、確認できるわけですが、問題は、科学的検証の余地が残る「食の安全」の問題でしょう。
 私は今回はウナギではなく国産のアナゴの蒲焼を買いました。

 不思議な話ですが、このような消費者の消費行動は科学的な見地から見ると不可解と思われるのは仕方ない部分が多いです。
 安全性基準を判定するのは、まず消費者であり、行政ですが
科学的検証能力のない国民は、常に安全性のリスクを背負って消費活動を行うしかない
という覚悟が必要そうです。

 「土用の丑の日にウナギを食べる」というキャンペーンの歴史は有名ですが、
夏の土用の丑の日は、暑い時期を乗り切る栄養をつける為

というお話ですが、現実的には、暑い時期とは言えない傾向が多いようです。
もちろん、異常気象の影響もあるでしょうが、江戸時代でももっとも暑い時期は8月中旬ですから、
土用の丑の日という理由は、どうも怪しいわけです。
もちろん、平賀源内さんによるコマーシャル行為という説が有力なものですが
同じようなイベントであるバレンタイン、ホワイトデーのコマーシャル批判のようには
辛らつには評されないことも不可思議な所です。

補足的なお話ですが、
「ウナギと梅干の食べ合わせ」は危険とされていましたが、科学的根拠はなく
むしろ、食べ合わせとして好ましい部類とのお話です。参考URL

話を戻しまして、
「食の安全性は100%はない」
ことは言うまでもありません。国産であるから100%ではありません。
BSE問題でも、消費者は牛肉の安全性を求めてアメリカ産牛肉のボイコット運動が起こりましたが
今では、下火のようです。
国が妥協的に輸入再開した部分もあるのでしょうが、
安価なアメリカ産牛肉、高い安全性という天秤で、安全性は二の次になった人も多そうです。

結局は「消費者の選択」に落ち着くわけですが、
「今の中国産ウナギ離れはどう決着するでしょうか?」
(私は、ウナギよりもアナゴが好きです)

ある食品調査会社と食品アナリストの話では、国産、中国産の味の違いは判定がつかないそうです。

ちょっと穿った話をさせてもらうと、「中国産ウナギ」という表示方法で台湾産のウナギは取り扱われるそうです。
当然ですが日本は公式には「台湾」という国家を認めていないわけですし、
海外輸入品は地域表示ではなく国家表示になるものですから、台湾=中国と表示になることは理解してもらえることでしょう。
「台湾産」というのが、JAS法として適正なのでしょうか?
それも調べる必要性がありそうです。
台湾産ウナギの危険について

 「風評被害」という言葉があります。
O-157の「カイワレダイコン」
トリインフルエンザと「鶏肉」
この二つは、実害がない上に、実害を及ぼす可能性すらない食品でありながら風評被害で壊滅的な打撃を受けました。
これに似たように、責任がない食品まで風評被害が壊滅的な打撃を受けた事例は多くあります。

これらの被害者は例外なく国民や国の責任がありますが、いかんせん、国民は実害があると思い込んでしまいます。
「食品の安全性」は程度論であることを踏まえて消費活動をされることを望むと共に、
デマに踊らされないようにしたいものです・・・







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