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再編「明治維新再考察その1」
【2008/10/15 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(2)
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はじめに
 本ブログでは明治維新に関する嫌疑を随所に指摘しているが、今回は幕末通史としてある程度の知識のある人向けに加工したより詳細な個人的観念論的歴史観の記述です。
政治的枠組みだけが特にクローズアップされる幕末において経済的側面についても比較的重要な部分を抵触したつもりです。
順番に読むと全10回に渡り原稿用紙にすると100枚以上になりますが、なるべく平易に書いたつもりですので、興味ある方は記事をごらんになってください。なお、現在第8回まで進んでおります。
読む前に注意しておきますが、本作は基本的に薩長倒幕派の評価が低く幕府派贔屓になっています。特に一橋慶喜の評価や幕臣の評価なども注釈がありますが、そちらに関しては他意はなく好みの問題です。
なお、本記事への質問などは自分が対応しますが、アシスタントSが日本史が自分よりできるので十分対応可能だと思いますので、一部対応させていただきます。
それは第一回から
今回のテーマは
「世界が日本を支配するというシナリオ」という問題です。


・日本の地理的国防要素と武士の変質
 日本は言うまでもなく四方を海に囲まれた天然の要害に守られた国家であった。それを例示するように過去、日本が外国から進攻を受けたことは明治まででは元寇の二回のみであると言える。
 日本から海外への進攻も数多くなく当然ながら、攻守に渡って日本の平和を構築したという地理的分析も可能である。
 それがゆえに日本の国防意識は今も昔も希薄という批判があるのは指摘するまでもないだろう。
 しかし、この要害はある種、防衛における最大の利点であることを含めて今後の防衛構想でも生きることだろう。
 もちろん、航空戦力による地平、水平障壁のの無力化は加味されるものではないが
歴史学的に考察するに、日本の国防意識は陸続きの大陸国家ほど高くないのは仕方ないにしても、まず武家社会という封建社会による地域型政治という形態で、地域防衛の必要性は意識されていたことは評価するべきだろう。
 明確に「戦国時代」のように地域ごとの闘争状態が現出したわけでもないが、静かな統治環境にしても武家社会はその封建契約を前提とした秩序維持に邁進していたという分析が可能である。
 しかし、江戸時代になると、武家社会としての武断的要素への意識が低くなるのは、たとえば、大久保彦左衛門の※「三河物語」などで抵触されているとおりのことである。
注意:大久保彦左衛門の「三河物語」は士道を語る上での戦国時代末期における重要な資料であるとともに江戸初期の世相と幕藩体制への武断家の感想文として一級の資料である。内容は、武断派だった三河譜代の家臣が疎んじられ、官僚型の文治官僚が出世する幕府を謗っているのだが、文面は武断時代の幕府を懐かしむことの必要を問わないでいる部分では、彦左衛門の政治感覚の鈍感さではなく、一流の愚痴家の文面と評価できる。注意するべきは、これが単なる個人の愚痴ではなく、“士道とは”という立脚点における見解が並んでいることにある。朱子学が江戸末期になると隆盛するのだが、いわゆる典型的封建時代の武士の生き様の「一所懸命」と安定的文治政治時代の文治官僚の生き様の「一生懸命」の差異に留意して読んでほしい

 ここで指摘するのは、江戸時代が文治政治として本来あるべき封建社会における明確な土地への執着からその生産物である「米」そして、貨幣への価値の偏向が起きていることに問題がある。
 俸禄として付与されるものは米ではなく、石という土地であることは封建社会であると言えるのだが、江戸時代などではより旗本、御家人は領地経営を積極的に行うことはなく、徴税権も事実上商人に委任しているようなものである。これは鎌倉、室町幕府の武家では見られない部分であり、当時の武家ではありえない武士の肖像である。
 封建領主としての領土支配の方法があまりにも官僚主義になったというのが簡単な見方だろう。

 案外触れられていないのが、江戸時代の旗本、御家人は封土を直接経営することは稀である。江戸屋敷にいるのがほとんどで幕府より役回りがある以上は、幕府に詰めるのは仕方ないにしても、封建社会の領主としてはいささか姿がない存在である。
 徴税権を商人が委任されていたという評価をしているが、これは実際は地方の組合、寄り合い制度に依存した徴税システムが多いという評価が妥当である。いわゆる庄屋などの村三役がより地方統治に大きな影響力を持っていたというのが天領や旗本、御家人の封土の現況である。
 さて、このような状況では武士が土地、封土への執着が強くなる土壌は少なくなるのは言うまでもないだろう。
 「文治官僚が出世する世の中はある種、ゴマすりの旨い奴が出世する世の中」だと大久保彦左衛門が評しているが、過去の武家社会の武士肖像からすれば、その評価は誇張ではない。現代社会もそういう世界である。
 そういう部分の根っこは維新によっても変化していないことは皮肉な事実である。
 今回は朱子学が官学になってからの武家社会の変容過程は儒教的分析が重要なのだが割愛する。簡単に評するならこうなる
朱子学以前の武士の肖像は
「領土経営に勤しむ領土経営責任者、領土防衛責任者」
それが朱子学によって
「君主に懸命に仕える中央集権官僚・忠誠の価値を第一義にする片務的契約関係者」
と変質する。

 個人として、これを、士道、武士道への変化だと認識しているのだが、今回は明治時代考察なので別項に譲りたい。

・外洋船舶技術の差異
 諸外国の外洋船舶技術に関してなのだが、まずはその変化について
蒸気機関による蒸気機関外洋船が生まれる(1807)
鉄工法の造船技術が生まれ(1821)
スクリューによる船の駆動も実用化される。(1843)

上記の三点の技術革新は重要な外洋船舶技術の飛躍になる。
蒸気機関によって動力が確保され、鉄によって飛躍的に船の強度があがり激しい外洋の時化(しけ)にも対応できるようになる。スクリューの実用化はより効率のよい駆動力を提供する動力伝達手段となったわけである。
比較して当時の日本の船舶に関してだが、和船という形状が多い。
イメージとしては、横幅が広い日本の船に比較して、スマートなのが西洋船舶というものが妥当である。
一見してスマートな西洋船舶は安定性にかけると思われるが、波のネジレ応力に耐えるのは不向きであったためにバラバラに破壊される傾向にあった。
西洋船舶は船底に敷居を設けることで侵水時の被害を敷居毎で抑えることになったことも船の生存率を飛躍的に変えたと言える。
 日本の船舶技術は鎖国によって諸外国に大きく遅れたことは言うまでもないが、これは技術的な側面もあるが、幕府政治が船舶の大きさなどの規制があったことが大きな要因であろう。
 商船などは日本でも存在し、日本の近海を奔走していたわけだが、それに関しても幕府の強い統制化にあったことは言うまでもないだろう。
 ここで船舶の技術的差異は幕府の責任に帰しているのだが、幕末になると幕府は国防力を高めるために、オランダなどの諸外国から積極的に技術導入を図ることになる。
 小栗忠順などの幕臣が国産化への橋渡しをしたことは、今日の日本の造船技術、造船設備の歴史において多大な功績があるということを指摘しておく
(本ブログ内でも指摘しているのだが、戊辰戦役当時の海軍力では幕府側が優勢であった。戦術的な分析論は大村益次郎が指摘しているのだが、決して、新政府軍に勝てないほど、圧倒的劣勢ではなかったことに留意してほしい。紙一重という評価は妥当とはいえないが、挽回が容易であったことは多くの識者も認める部分であり、”薩長の圧勝”、というのは是正するべき歴史観であろう

・エネルギー革命・通商・市場を求めて
 産業革命によって石炭が重要な原動力になったことは多くの人が理解していることである。
 しかし、鯨油が家庭専用の照明や機械の潤滑油に活用されていたことは、日本の捕鯨基地としての意味をもたらしたのである。
 ここであえて、注意喚起しておくが、実は列強の多くが鯨油を求めていたわけではない。鯨油を必要としていたのはアメリカである。
 他の列強は、それらの需要を代替資源を市場として植民地に保有していたと認識するのだが正しい。”なつめ椰子”などは潤滑油にも活用できる資源であり、かの奴隷海岸やインドネシアなどが重要な生産地として植民地として収奪されていったのである。
 列強にとっては、植民地市場として開港と市場開放に必要な通商と有利な貿易体制を構築するための、関税権利の剥奪というものが必要だったことは言うまでもない。ここにアメリカは捕鯨基地としての重要性があったというのが、アメリカが開港に熱心だった背景がある。
 欧州列強の当時の概況を分析する必要がある。イギリス、ロシアはクリミア戦争を始め、オスマントルコにかかわる問題でこの時期は戦火が激しい時期であり、イギリス・フランスは中国での利権争いで一触即発の状況である。このような状況で日本に開港を要求していたということである。
 比較的幕末の歴史を語る識者は当時の世界情勢に対する見地が低い。
 特に、英仏の植民地政策の基本路線・アメリカの状況についての見解は浅慮というものが多い。
冥王星個人からいえば、アメリカ・ロシア以外は日本を直接的に植民地経営するメリットがないし、そのための財力さえない。
 例外であるアメリカ・ロシアの当時の実力を考えれば、英仏との関係性を含めて日本への侵攻というものは非常にリスキーである。
 反論する中で、薩長が列強と戦争したという事実を提示する人はいるが、戦争と戦争後の支配では戦力の投下の仕方から違うことを忘れていると看破できよう。

・列強が日本を侵略するというシナリオの現実性
 上記で列強の当時の概況を説明しているのだが、まず
「この時期での本格的日本への侵攻が可能だったのか?」という部分では非常に幕府も危機感があって然るべきであるのは言うまでもない。
 しかし、現実に”諸外国が圧倒的な技術力で日本を蹂躙できたのか?”という分析がされていない。
 幕末明治維新論において、可及的速やかな改革を喧伝していた薩長側の浅慮さを提示できる関連情報である「列強の余力」という問題は、なぜか歴史家から詳細に語られることはない。
 それは、幕末通史の歴史家の多くが、列強の実力に関する知識・情報を欠いていることにある。
 逆に言えば、幕末人物史の影響から列強を観察しているに過ぎないという歴史家が多いことも重大な問題点であろう。

 特に中国のアヘン戦争の分析などは、どの歴史家も詳細の分析を行うことなく、イギリスの余力を喧伝している。
 「支配するためのパワーと侵略するためのパワーのどちらが膨大なのか?」
という問題提起は、大東亜戦争の中国支配で理解されるべき問題であるのに、そこまでの反省のない幕末論が罷り通っているから、幕末史は危険極まりない、と言えるだろう。
 確かに、西洋列強の船舶の強さは否定できない。
しかし、その数は非常に少ないし、カバーできる海域も狭い。
もちろん質的な部分では列強船舶が圧倒するだろうが、広い海域を全面的にカバーするほどの技術的優位性があったとは言いがたい。
イギリスの植民地支配の方策は海上支配である。制海権をもってして統治支配の暴力を補完するものであり、当時の船舶の火力は、機動性の高い小型船舶のゲリラ作戦によって制約できることはインドや中国の抵抗運動でも明白である。
 日本という島国の地形は、外洋船舶の航行の制約性を効果的に生かせる地形であった。
 幕末当時の列強危機というのは、ヒステリックな部分が多いと言える。
 それは、列強戦力の全体像だけを見て「戦略的に勝てない」という決め付けに至った。その決め付けは日本的な防衛方法という日本独特の防衛思想の存在を忘却させるほどのインパクトがあったのだろうが、幕末志士は思想的過ぎたのだろう。
 大村益次郎の言説を追っている歴史家も認めたことだが、大村は列強進攻を恐れていなかった。少なくともそれを想定した説話がない。
 通信技術の限界射程の問題と高速移動の可能になった現代兵器では想定できないだろうが、この時代では戦線をカバーリングできる後方射程は限定される。
 ここに指摘することは、いわゆる日本が列強の兵站を絶つことが十分可能だったことを想定している話である。
 次に日本の地形的な要因が挙げられる、平地が少なく山がちな地形の日本は決して大陸型兵器の運用に適した地形ではない。
 日本海側、太平洋側と二面的に戦術的展開が可能な状況ではないと戦地運営に支障があることもいうまでもないし、兵站問題が控えている。つまり、大陸型兵器としての活用の限界が日本の地形にあるということである。
 日本の海岸線は砂浜が少なく海岸線と遠浅の海が広がり、揚陸作戦が困難な場所が多い。
 単純に海に囲まれているだけではなく、海岸線の地形的特徴を考えれば、大規模な陸上兵器の投下が難しいなど、日本が列強に侵略される可能性など極めて根拠のない悲観的分析である。
 このような分析は実は、薩長統幕派の喧伝というのが冥王星の見解である。
 さて、ここに記した防衛的見解には、沖縄と北海道は含まれていないことは予め指摘しておく。
 当時の幕末志士の世界観に北海道・沖縄は存在しないのであり、現代の「日本」とは違うのである。
 日本が外国に蹂躙されないと言える最大の根拠は港の構造がある。
 盲点というべきか、理解されていないのだが、当時の西洋船舶が寄港できるような大型の良港は神戸、横浜以外にはないのである。
 港の深さなどの問題は海運関係者などでは現代でも懸案になるものだが、当時の日本の近海商船は背が低いものが多かったことが幸いしている。甲板が高い位置にある西洋外洋船舶から荷物を降ろすのには、大型兵器は分解する必要もあるなど障害が多いのである。
 以上が
 幕末において、列強が日本を蹂躙する可能性を否定する論拠である。
 多くの方に認識してほしいのだが、幕末当時は確かに国防において、問題が山積し幕府に解決能力がなかったことは否定できないのだが、ハード的に列強が日本を蹂躙するだけの状況も環境もできていないという分析も可能なのである。
 実際、維新において非常に高い見識を見せている人の中で日本が列強に蹂躙される可能性を現実視してる人は少ない。

・市場としての日本の魅力
 政治的な側面から日本が列強の実質的支配を回避するだろう根拠を明示しておきたい。
 それは植民地市場としての人口と商品流通の問題である。
日本は当時、アジア地域の最大とも言える人口を保有していた国家である。
幕府の支配下の元、商人が商品を流動させていた部分では、その幕府を抑えることで商品の流通が統制できると思うのはそれほど浅はかではないだろう。
 江戸、大阪などではいわゆる御用商人など筆頭として、資本カルテルのような商人が商品流動と価値を統制していた。
 彼らを列強が暴力を恫喝するのは想定できるのだが、彼らの協力なしに商品を流動させることは不可能に近いと言える。
 それは日本の現状の卸売り、中卸などの存在などが示すように消費傾向を小売以外の段階で注視してる業態があることから容易にに想像できるだろう。
 つまり列強が商品を流通させたくても、結局は有力商人が自分の身を削って流通させるわけではないことからもある程度のレベルで収まるだろうということが想像可能なのである。
 それに江戸時代は決して、西洋社会のような大量消費、大量生産の世界ではなく、優れたエコロジカルな経済体制であることは近年評価が著しいことである。このような消費、流通状況を考えると決して、市場が列強の生産物を嬉々として需要したとは言えないだろう。
 このことも当然、列強も分析できることであるし、もし市場進出しても結局は、尻切れトンボになるという論拠である。
 ちなみに、日本で外資系スーパーが隆盛しないのは、流通における消費傾向を外資は的確に捉えられていない証拠だと個人として認識している。(「といざらす」を成功例にあげる人がいるが、現在では本社は資本撤収している)
 西洋式の生活文化への理解の問題がある。日本が急速に西洋化した背景には、明治政府の病理的とも言うべき西洋化政策である評価もあることは言うまでもない。
 列強が幕府側にそのような政策を強いる可能性はあるにしても江戸時代の現状においてより権力者が西洋的な商品を需要するというのは困難である。事実、開港後、日本では西洋式の文化が少しづつ進攻してゆくが、その需要は非常に限定されたものであることは、鹿鳴館への皮肉歌などからも想像できるだろう。
そして一番致命的なのは、日本が市場としては一方的消費基地にしかなりえないという最大の市場の弱点が挙げられる。
 中国などの列強の植民地は概ねマニファクチャリング業態の原材料提供拠点としての重要性を消費市場としての両面の価値があった。しかし、日本はそれらの原材料の生産拠点としての可能性が期待できないのである。
 これは単純に日本の気候風土の問題もあるが、水田という稲作に特化した耕作地事情も加味して評価するべきものがある。他の植民地のように、「往復で積荷で満載される」であろう市場とは日本は違うのである。これは運輸業界の人には痛切に理解できる「空便」という現状である。これほど致命的な市場としての欠損を西洋が理解していないわけではないのである。
 以上は、政治的に物理的に言える列強にとっての日本の市場としての相対的価値の問題点である。
 これらの指摘を踏まえて、いわゆる明治維新の早急な革命の必要性に関しては、問題提起しておく。
 これは、薩長や維新獅子のいう早急なる日本の革命の必要性を否定する論拠として留めておいてほしい。

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憲法再論「国民投票法)
【2008/10/13 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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国民投票の基礎知識と著者の立場

1:国民投票法の基礎知識

 国民投票法は、憲法改正に関しての憲法96条の規定を実用的にするために、新規作成された「手続法」です。 
 国民投票法の正式名称は「日本国憲法の改正手続に関する法律 」という。
国民投票法という名称そのものは憲法96条の記述に基づいた法律であり、

96条 (憲法改正)
1.この憲法の改正は、①各議員の三分の二以以上の賛成で、国会がこれを発議し国民に提案して
 ②その承認を得なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2.憲法改正について全項の承認を経たときは、③天皇は、国民の名でこの憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

と条文にある通り、憲法改正手続きには国民投票が行われることを由来として「国民投票法」と通称されます。
 憲法改正の手続きとして憲法上では三段階の手続きを規定している。


①国会の発議(国民投票法6章→国会法改正部分)
②国民の承認(国民投票法1~5章)
③公布(国民投票法に規定なし)

 国民投票法は実態としては、①と②の手続きを規定しており、そのほとんどが②の「国民の承認」つまり国民投票に関する規定で構成されています。

2:憲法改正の手続法の政治的正当性
 護憲派からすれば、「憲法を改正する目的の立法行為が憲法違反」という主張もありますが、96条に規定されているように、日本国憲法は改正するための方法論を抽象的ながらも明示しているのであり、護憲派の「憲法自体が改正を前提にしていない」という言説は否定されるべきものでしょう。
 一方、憲法制定権利者としての国民が、憲法改正の権限を持っていないという道理もありません。憲法改正には、権利者である国民の制定権として正当性がある、という構造が日本国憲法上に想定されることは理解できない話ではないでしょう。
 冥王星流儀でいえば「国民投票行動を行わせないことも、国民に付与されている主権行為である」ということ考えられる。
 つまり、
改憲にとっては
96条が規定している改正の手続法に関しては、憲政上での制定行為の合理性があるものであり、これを否定することはできない
護憲派にとっては
憲法制定権利者として、憲法を死守する
という両者の政治的立場の競合状況を否定する必要性はないのである。
もちろん、これは立憲主義社会を前提とした話であり、憲法が最高法規であり、かつ国家権力と国民の権利義務関係を明示する基礎法規である限りは、憲法制定権利者としての国民の自由なスタンスは否定できない。

3.冥王星の立場として
 冥王星は「護憲的解釈改憲派」である。
より妥当性があると言える表現で言えば、「加憲論」である。
 そもそも、護憲であろうと改憲であろうと日本国憲法の三大原則を根本的に否定することは難しい上に、自己矛盾を発することになる。
 事実上、日本国憲法改正には限界射程があるというのは、国民が制定権者であることが起因する。
 。
 簡単に憲法としての独自性を提示するならば
①コモンロー的シビルロー
②不戦条約を踏襲した非武装的平和主義
③硬性憲法
という三点は普遍的に問題点にされるものがあるだろう。
特に、①のコモンロー的シビルロー(英米法的な大陸法→判例主義的実定法)という憲法の視点は諸外国とは比較にならないほど憲法問題を複雑化させている。
 ただし、実態的に改憲論の多くは②の平和憲法としての現実性のテーマを主体として論争しているが、この論争は安保闘争時代から継続的に国政で議論され、結論を見ていない。

 自分を「加憲論」と位置づける論拠は、あくまでも現状の日本国憲法を改正するのではなく、
「条文を付け足す、修正事項を設ける」 
という考えから「加憲論」の立場を取るものである。
 今の改憲論は憲法9条の是非論が主体的であるが、これはこれまで継続的に論争されて結果、具体的な草案さえ創出されていない現状がある。
 9条だけを論題にしている改憲論は視野狭窄であるという批判もあるが、近代社会の憲法を視点にして構築された日本国憲法は制度疲労を迎えているという部分は少なからずあると認識する。
 新しい人権概念が続きと創出され、世界規模での問題提起が行われ、それに対して日本国としての立場・日本国民としての立場について国家戦略的な部分を持つ現行憲法は時代錯誤という部分は過分にあるだろう。
 「環境権」・「人間の安全保障」などの新しく重要視されている市民権などに憲法がまったく配慮しないでもいい、という状態を放置されているのは問題だろう。
 これらの新しい権利は、憲法で規定されるべき重要な市民権としての確立と感じる市民は少なからず存在し、彼らの憲法制定権者としての主権を尊重するにも、改正議論を否定することは、主権在民という憲法である以上は護憲派も出来ないことであろう。
「修正事項」という考えは、「アメリカ連邦法」(アメリカの憲法)は多くの「修正事項」を抱えて成立していることをモデルにしている。
具体例は
などであり、
アメリカ連邦法本体から時間の経過に対して、修正事項として新しい権利を盛り込むようになっている。
「条文の付けたし」というのは、簡単に関連条文に新しく加えられるべき条文を付記することである。これは「改正」ではないことになる。
 
 「護憲的解釈改憲」というのは、これまでの憲法のあり方であり、現状維持に近いと思っても間違いない。
 日本国憲法そのものが、コモンロー的であるという指摘は、憲法の実態が司法・行政の解釈の支配下にあり、制定権者の意志では憲法は運用されているとは言い切れない。
 このような現状が長く続いた日本国憲法であるが、国民から大きな批判は起こるものの、そのたびに国民が妥当な政治選択を行えるものではなく、むしろ行政・司法側の憲法判断の妥当性の方が信用できることにある。
 逆にこのような姿勢は、現行の行政の憲法解釈者である「内閣法制局」の憲法支配という問題点があるが、これは関しては別の機会を儲けて問題解決の方法論を提示したい。
 つまり、憲法問題に関しては、現状維持派というのが簡単な理解だろう。

  
 


鳥龍茶(にゃおろん茶)より「チベット宗教界の実態について」
【2008/10/12 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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 「鳥龍茶」(にゃおろん茶)戦前のラサの様子 から
 この記事は戦前のチベットの女性とラサの宗教世界の関係についての記述である。
 これを追随するような記述が司馬遼太郎の「ロシアについて」に記載がある。
新婚夫婦に対して、新郎が新婦と初夜を迎える前に、チベット坊主が新郎よりも先に処女をいただき、そして性病を蔓延させる。

2チャンネルにこんな記述があった
ラマ教にあっては、男女合体の「妙適(エクスタシ)」像をあがめるだけでなく、
ラマ僧自身が初夜権をもつ。
ところが、ラマ僧に梅毒を保菌している者が多いため、このことが人口増加を衰えさせる結果になった。
ロシア人がシベリア征服にあたって、女性が不足していたが、
ラマ教を奉ずる民族の女たちに触れるのを怖れていたのは、一つは性病のためであった。

マルコ・ポーロの「東方見聞録」の時代にも”初夜権”が取引されていた記述があり古くからの慣習と解するのが妥当かもしれない。(13世紀の記述)
 誤解されたくないのだが、このような慣習を現代社会的倫理観で判断するのは問題がある。
なにより、チベット社会には中国が侵略するまでは、人権という概念すら存在しない社会であり、国際社会から隔絶していた社会という理解が妥当である。
(ある意味では、チベット人は中国侵略によって「人権世界」を知ることになったのである)

 「初夜権」という概念が民俗学的に確立していると言えるのは、異常なことではなく、社会秩序として女性がムラ・地域の共有財産とされた時期の合理的税制という側面がある。
 簡単に言えば、部族社会もしくは宗教基盤とした寡頭政治においては、部族単位の財産権が一般的であり、私有財産制度はない。女性も部族の財産であり、その財産権の管理者が部族長である。
 婚姻制度は宗教的夫婦契約を前提とした家族社会の出現によって(家族法)確立するもので、文献学的古代社会は、女性は財産としての取り扱いを受けることが多いのである。
 そこで、部族長は部族の健全な維持のために人口調整政策を実施する必要性が発生する。
 部族人口が肥大化して餓死者を出さないにしても、他部族の侵攻に対処できるだけの兵士と財産、総じて言えば人口調整が部族長としての重要な意味がある。
 古代社会の婚姻は非常に自由で大らかで必然的に乱交状態に陥る可能性が高いことは、共和制ローマやギリシャ社会を見ても分かることである。
 社会維持のために部族長は部族財産である女性を政治的道具にする必然性がある。
 そこで発生したのが、「初夜権」の一つである。
 それを助成するような宗教的背景もある。
「初夜権」は迷信の類にしても「処女と性行為をすることは災難を招く」という信仰は様々な文献から見られるのである。
「フィガロの結婚」などは具体例であり、”エドワード1世の初夜権解放”などの歴史は史実ではないと断定するだけの要素もない。(存在したという断定要素も希薄ではあるが)

さて、親記事には批判的に
「聖地ラサも、その裏は以上のような性道徳のかけらもない、ただれきった街なのである。」
という指摘があるが、現代社会における価値観であることをまず前提にして考える必要性があるが、問題点は初夜権などの豪放な性関係から発生する性病の問題である。
 統計の信用性もあるが、ジョージ・パターソンという冒険家の記述では、1950年代のチベットの女性の90%が性病感染者であると語られている。
 中国のチベット侵略が本格化した時期と重なるのだが、中国軍が原因で性病感染者が90%になったというには、あまりにも短絡的な指摘である。

 それ以前の性病感染率の数値が無いので比較できないが、逆に中国解放軍が侵攻してから性病感染率が下がったという統計もある。(「中国はいかにチベットに侵攻したのか?」より)
 原始的神権政治のラサ周辺・高山性遊牧社会のチベットの多くの地域は部族制社会であり、神権政治の奴隷制社会という見方が妥当である。
 奴隷制社会といっても、緩やかな奴隷支配でありイメージするならば共和制ローマの農奴である。
(近代欧米列強の奴隷は過酷な労働環境を強いられたが、古代の奴隷は財産としての価値があり近代の奴隷とは違い自由が広くあった)

 自由な恋愛・性事情の背景で蔓延した性病の結果、チベットの人口増加は見られない。地球規模での温暖化時代だった中世は総じて食糧問題が改善した時代であり、チベットも人口増加しているはずだが、その傾向も統計もないのが不思議である。
チベットは常に人口動態として生産性以前に生理的問題を抱えていたという可能性が高い考えられる。
 ちなみに、チベット社会の実像がある程度、分かってくるになった中国当局の支配時代以前の統計がないのがもっとチベット問題を難しくしている問題であるが
チベット自治区の統計局調べでは
「1950年のチベットの人口は100万人が2007年には284万人に達し、1950年より2.8倍に増加」したとある。
 世界人口の逓増は驚くべきスピードであるが、
 中国政府にチベット人が多く虐殺されているとしても2.8倍という数字は整合性がないと言える。
サイトによっては120万人が虐殺されたことになっているが、
1950年100万から2007年284万人という逓増から更に、120万人が虐殺されたというならば、実質的には400万人の人口であったという話になるだろう。
つまり、人口増加率400%というチベット人口増加は単純に近代化と言えない部分があると言える。
4倍近い人口逓増はそれこそ世界人口統計からしても特異であり、むしろ、1950年以前の人口動態に問題がある可能性が深い。
 チベット男性の性病率の統計がないことが論理的正当性を確立できない最大要素であるが、女性の性病率からすれば必然的に男性の性病率も高くなるものだろう。
 その背景もあり、チベットの人口は常に低い水準であったことは予測可能なことである。

 さて、民俗学的見地から言わせて貰うと、チベットの「ただれた性事情」と言われる論拠は多々あるのだが、それを立証するような傾向がある。
 仮面舞踏会(マスカレード)とアヘンである。
 この二つは性的倫理観を逸脱した社会にしばしば見られるものである。
 チベットには、「ラモ」という仮面舞踏がショーステージ化しているが、それは古代の神権政治の祭事で行われる仮面舞踏とは違い、聖職者が好んで催していたことが伝えられている。
 同じようにチベットは有数のケシの自生地域で青い色のケシが咲くことで有名である。(東チベットは自然自生できる中国でも数少ない地域である。)
誤解を恐れずに指摘しておくが、基本的には漢民族の居住区ではケシは自生しない。
中国は英国の支配下の時代にアヘンで苦しむ歴史的悲劇に合うが、中国はケシが自生しないからこそ貿易が成立したことは重要な視点のはずである。
 しかし、残念ながらそういう中国の背景も知らないチベット人権論者は
「中国人民解放軍がチベットに麻薬を持ち込んだ」などと言い出すから難しい問題がある。
NHKスペシャル「調査報告 日本軍と阿片」(8月17日放送)でも指摘されたことだが、大東亜戦争当時に中国本土で日本軍がケシを栽培させていたことは間違いないことであり、
これは台湾でのアヘン対策に成功した後藤新平の政策を踏襲したような評価があるが、生産量管理ができない流通管理もできない当時の中国の現状を考えれば、台湾の実例で正当化できるものではないのは言うまでもないだろう。
 後藤の漸次的禁止政策(漸禁政策)は厳密なアヘン管理とアヘンによって得た利益を台湾のインフラ整備に活用したからこそ賞嘆されるものであって、中国支配の日本軍の戦費としてアヘンが使われていた部分は、アヘン戦争のイギリスと大差ないものである。
 もっともイギリスはアヘン戦争当時は、議会でも相当な議論と反論でアヘン戦争が論じられ、イギリス人にとってはアヘン戦争はイギリス歴史の恥部となっている。

 習俗的な部分でチベット世界は現代的価値観から見れば、とても許容しえない社会であったわけだが、それは別にいいとしても、中国政府批判の内容の論理的正当性の希薄は否めない。
 性病、人口、アヘンと中国が侵攻して判明した問題点があるのは明白だろう。
 未だに、古い習俗で生きる部族があるが、彼らを現代社会の価値観・倫理で我々が批判するのは問題があるのは言うまでも無い。
 むしろチベットの近代化という意味で中国が果たしたことの意味は否定しきれないものがあるだろう。
 仮にチベットに中国が侵攻しないままであれば、チベットの不健全とも言える社会風習が跋扈し、中国当局の支配以上の人権問題を孕んでいたことを知る機会もなかっただろう。
むしろ、チベットの実情をぼやかすために、中国政府を批判するのが、ダライラマ14世とカンポデンタンの目的かもしれない。
  断定するのは非常に問題があるが、そもそも仏教は女性蔑視的価値観がベースにあると言える。
 お釈迦様は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。その九つの悪い属性とは何か。女は、1、汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで、7.怒りっぽく、8.おしゃべりで、9.軽口であるということである。
[増一阿含経,第41巻,馬王品] 

女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。[…]この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。
『転女身経』より

 ラマ教世界は仏教がベースである。こういう価値観であるラマ教世界を多くの市民がどのように見つめているのだろうか?
 ダライラマやラマ教は非常に神聖視されていると感じる。
しかし、現代のダライラマ14世がこのような因習については存在しなかったような言説を行っていることは非常に「人権擁護」の部分からしても問題があることは指摘の余地はないだろう。
 さて、よくチベット人権論者が主体的にラサ周辺社会の現況についてのコメントは発しますが
実際にラサ周辺以外の広大なチベット高原の部族を取材した事例はほとんどない。
 仮に取材したとしても取材拒否するか・古代国家的な社会秩序を提示することが困難である部分があるだろう。
 私の知己でもあり人権活動家のIRC職員が私的要件(青いケシの写真取材)でウ族という部族の取材をした時によくそれを象徴した話があったそうだ。
 当人の話を整理すれば、冥王星のチベット認識に大きな齟齬がないのだが
1.ウ族を始めラサ以外のチベット高原のチベット人はラマ教信者でもないない人間が相当存在する
2.ラマ教信徒であっても現在のポタラ宮殿の世俗的ラマ教を信用していない・信仰していない
3.ダライラマへの圧倒的不信感と中国政府の取り扱いの違いのどちらにもつけない
4.富を独占しているラマ教聖職者は中国を出汁にして更に利権を獲得しようとしている
5.ポタラ宮殿を中心としたラマ教の政治支配は伝統的チベット部族社会の崩壊に帰結する

 中国の人権蹂躙という見解は、確かに自由主義陣営の価値観からすれば「人権侵害」ではあるのだが、それ以上に、チベット民族がラマ教支配を嫌悪しているのは否定できない事実なのだろう。
 仮に彼らがチベット部族少数派であろうとも、彼らの言い分は理屈が通る部分があるのは言うまでもない。
 そもそも、現代の国際政治は、政教分離の政治原則を見失っていることも問題提起されるだろう。
仮にダライラマの政治的指導力が強かろうとも、政治と宗教の分離は世界の民主主義の基準とも言えるだろう。
 それすら蔑ろにしてチベットの民主主義を実現しようとする民主主義に欺瞞があるのは事実ではないだろうか?

さて、あえて誤解を解くためにもいくつか整理しておくが
いつか、問題点あるチベット問題の記事を取り上げて問題提起した上で論説を加えたい。
「ぼやきくっくり」大高未貴さんチベットを語るより
<>は引用した問題文章である。
<野口 チベットはかつて、れっきとした独立国でした。>

説明するまでもないが、”独立国”という定義論をしないで「独立国」を騙ることは簡単である。
沖縄も独立国であったと言えるし、古代の伊賀地方は朝廷支配を逃れていた独立国であったと言える。
独立国であることが、「国家」であることを規定するわけでもないのであり、「独立国」であった事実は重要ではないのである。

<大高 明の皇帝がチベットが独立していたことを認めた遺跡も残されています。しかし、1950年に中国人民解放軍が侵攻し、民衆蜂起したチベット人の流血をこれ以上増やさないため59年にダライ・ラマ14世は、インドに「亡命」、ダラムサラに亡命政権を樹立しました。>

 この説明も独立を認めていたという規定は存在していない。
仮に遺跡として残されていても、それを相手政府なりが認知しないと政治的に成立しないことも当然のことでしょう。
「国家」であるための要件に関しては語る必要性もない基礎知識であるが、そこらを抑えている識者の文章ではないことは明白であるし、感覚的説明にしても、まったく説得力のない説明にも関わらず、読む側が問題意識を持っていない。
 仮に、沖縄が独立国家であるために、「独立を認めたという記念碑を作った」ということで、独立国が規定できるなどはそれこそ妄想であるし、東京都が日本国からの独立記念碑を立てれば、独立国になりえる、という論理には政治的説得力がないのはすぐわかるだろう。
「国」という世界観は当人によって確立するような簡単なものではないことに思考が及ばない部類の知性はむしろ恥ずべき部類であろう。

<大高 チベット文化に秘められた英知は、人類の無形財産ですが、悲しいことにその伝統は、亡命政府があるインドのダラムサラという小さな村にしか残されていないように感じました。ここには、政府の省庁のほか、チベット仏教論理大学や医学・暦学研究所などがあり、チベット文化の緊急避難所になっています。生活は決して豊かではありませんが、人々は目があうと微笑で応え、たおやかな時が流れていました。ダライ・ラマが説く慈悲の生き方を実践している人々が多いからだと思います。>

これらは非常に狭量な価値観が明確化されているのは理解できるだろう。
チベット世界はポタラ宮殿を中心とした世界で形成されているような世界観である。
これはチベットのすべてのエッセンスがラサに集積されているという誤解を誘導するものである。
確かにラマ教の中心地としてのラサの価値は否定できないが、チベット文化はラサ以外にもあり、現在のチベット民族が多数を占めるブータンにもチベット文化は存在しているのである。
チベットを知らない人はこのレベルのチベットを「知ったか」している人間の「ラサ世界だけでチベット」を論じていることへの危機感があって然るべきはずなのだが・・・
 これは、日本は神道・仏教の国というイメージから京都や奈良だけで日本を論じる外国人と同じことであることも理解していただけるだろう。

<大高 ダライ・ラマが亡命前に住んでいたポタラ宮やチベット人が一度は巡礼を夢みるジョカン寺院などの建物はあります。しかし、中国政府が観光収入源として残しただけの魂の抜けた空疎な建物と化しています。>

中国政府の観光収入ではない(そもそも中国政府ではなく自治政府の財源になっている)し、そもそも「ジェガン寺院」という名称を使うことから素人さが伺えるのはまた別の話である。
 ジェガン寺院ではなく「トゥルナン寺」であるし、ジェガン寺院は巡礼地ではない。
巡礼=「コルラ」という行為であり、これは仏教とボン教ではやり方も違うし、そもそもチベット仏教=ラマ教においては聖地としての格付けはカイラス山の方が格上である。
 しかも、このトゥルナン寺は中国皇帝の娘さんである「文成公主」をお迎えした寺院であることから中国に由来があるから皮肉な話である。
 仔細の間違いは仕方ないにしても、まるでラサ以外にはチベット文化たるものがないような言いようには、ボン教のチベット人に対する無礼な物言いであることを糾弾するべきだろう。
 同時に、「カイラス山」というチベット仏教最大の聖地が今、中国政府の開発の危機に瀕していることも触れておくことにする。

<大高 寺院には「愛国再教育」なる名目で、工作隊が送り込まれ、チベット独立反対やダライ・ラマ拒絶など、チベット民族主義の「弊害」を教えています。これに反する動きをすると即、収容所行きです。むろんダライ・ラマの写真は一枚も飾られていませんし、家庭で隠し持つことすら許されません。チベット語教育も「チベット語はチベット仏教そのもので毒。従ってチベット語も禁ずる」という理屈で禁止されています。>

 チベット民主主義の弊害は事実である。チベット民族が周辺社会にもたらした弊害は以前にも記述したが、チベット民族がチベット高原世界に留まる限りは無害であったにしても、チベット民族が周辺社会で軋轢を生んでいる事実を「危険」「弊害」と規定することは中国政府ならずとも、中央アジア通史をやっていれば理解できない話でもない。
ヒトラーの写真を飾る自由は法的にはあれども、一般社会では許容できないように、魔女狩り的なヒステリックな傾向は存在するのは事実である。
ウ族ドロン部ではダライとラサ世界を嫌悪していることは触れられない事実である。

<大高 神聖なポタラ宮から車で5分のところにピンクのネオンがともる売春街が広がり、郊外の広場にテントを建てただけの即席売春所もありました。公安警察の目をかいくぐり案内してくれたチベット人が「漢民族がチベットに持ち込んだものは売春婦だけでなく性病と麻薬の蔓延(まんえん)だ」とそっと教えてくれました。公衆便所の壁一面に「淋病(りんびょう)」「梅毒」と書かれた病院の広告が張られているのも見ました。>
 
 前述したが、初夜権を買占め、奴隷制社会に生きるラマ僧侶を我々の価値観で神聖視・できるものだろうか?
聖職者というイメージは不可侵である意味では、理解から離れることが多い。
キリスト教が宗教改革に着手するまで、異常とも言える社会を形成し堕落したように、ラマ教世界は閉鎖的である。内情を正しく伝えられる人間などいないが、決して彼らが純粋な聖職者と言えない部分があるのは、多くの指摘にある。
むしろ、見えないラマ僧の実態を神聖視しているメディア識者の現状に危機感を持つべきではある。
 前述したが、中国信仰以前からチベットには麻薬があった可能性は高い。そもそも中国でもチベット近くがアヘンの自生地であり、中国はアヘン弊害で苦しんだ国である。
 実際、チベット部族の老人ではアヘンを常習していたことは分かっていることであり、中国をやり玉にすることへの正当性はほとんどない。
 仮に日本軍がアヘンで中国戦線の戦費を賄っていた事実を考えれば、そこにも原因は推定できるだろう。

<野口 ダライ・ラマは平和的対話を求めていますが、中国政府は応じていない。ダライ・ラマが選択した非暴力主義は立派な考えですが、それではチベット人の迫害は止まらないのでは。>

軽薄な知識で、ダライを「非暴力主義者」と規定しているが、彼は決して「非暴力主義」ではない。
 チベット世界は中国との闘争を繰り返し、アメリカの軍事支援を受け続けていたし、その背後にダライの指示がないとは言えない。
 同時にダライはインド亡命という行為で中国とインドの関係悪化を助長し、中国国境線の治安悪化の要因を彼自身が創出している。
 もし、彼が非暴力主義であれば、チベット民族自身の抵抗運動として武力闘争をやめるように主張するものではないだろうか?そして、彼は近年まで武装闘争をやめるような声明を出してきたわけではない。むしろ最近になって非暴力イメージを動因させていることは歴史が証明している。
 ガンディー氏の徹底した非暴力主義は、自らの武装解除であり、政治的妥協を引き出すに至ったものであり、チベットのダライの非暴力は決して、非暴力と言えるものではないだろう。

<大高 チベット再建を志す精神的武装トレーニングを、実は日本を参考に進めているのです。ダライ・ラマの居住地内に柔道場があり、警護隊が武道のけいこをしています。ダライ・ラマの広報官のルントク氏は、柔道を奨励している理由をこう説明しました。「13億人の中国に対し、チベットは600万人。軍事・経済力で圧倒的に不利な闘いに勝利するためわれわれは日本の武士道精神に目をつけました。日本はさきの大戦で敗れたにもかかわらず、短期間で経済大国になった。復興への精神力があったからです。われわれもダライ・ラマの唱える非暴力の抵抗を支える精神力を柔道で養おうとしているのです」>

新渡戸稲造の「武士道」が現代社会の精神性にどれだけ生きているのか?
という問題提起は当然必要だろうが、こういう記事の軽薄さは仕方ないとしても、
チベット人は中国と闘うつもりであることを尊重しているのである。非暴力主義という実態は暴力行為の準備と共存しえるのだろうか?矛盾を感じるの方が異常だろうか?

<大高 亡命政府で「チベット女戦士」として有名なアマ・アデ女史に会いました。彼女は中国人民解放軍侵攻後、抵抗運動に参加し、58年、26歳の時に逮捕され27年間も監獄内で過ごしました。その監獄だけで1万2319人の死者が確認されている。新聞には書けないほどの拷問や性的虐待、強制労働に耐えたそうです。そういった証言は、インドやネパールの難民施設で、いくらでも聞けます。>

彼女の著作を読んだことがあるが、まったく裏打ちのない信用性のかける希望的観測が述べられているに過ぎないことも問題だが、ラマ教世界の人間であるからこそ、ダライ派であることは当然考えられることである。
そもそも、女史はダライ派であり、中立的ではない存在である。
彼女に関しては、非暴力主義思想ではなく武力闘争的な行為が存在していることも指摘しておく。
ちなみに、実際、ネパールの収容所で取材した結果はない。
「聞けますよ」というその先の取材など存在していないのである。

<大高 世界の人々がチベット問題を見て見ぬふりをし続ければ、大きな禍根を残すことになります。ダライ・ラマの実姉で、難民となった子供たちの学校の校長であるツエン・ドルマ女史が「戦争でどんなに建物が破壊され、人が殺されても国は滅びない。だが、その国の人々の魂が破壊されたとき、その民族は滅びます」と語っていたのが印象に残っています。>

逆説的に、ラサ世界を中心としたチベット世界の理解が「チベット問題」の全てではないことを彼らには問題提起されるべきである。
 中途半端な知識で「知ったか」で語るような彼らの言動は、チベット民族の全体像を歪ませるものであることも危惧されるべきである。
 そして、もっとも陳腐なのは「その国の人々の魂」という抽象論であるだろう。
民族という抽象的な世界観を述べることへの危機感は別にして、ラサ世界だけしか見えない人間に、「その国の人々の魂」という遠大なテーマを述べる能力があるのだろうか?
冥王星はこの手のチベット論者の見解を憤りを覚えるのだが、多くのチベット認識は、情報があふれるラサ世界であり、ラサ世界以外のチベット社会の群像はまったく視野にないのだろうか?

この程度の「知ったか」チベット論は数が多い。
彼らに突きつけると回答できない致命的な質問がいくつかあるが、もし回答しえる人がいれば回答してほしい。
①:チベット世界の代表者がダライを始め、ラサのラマ教にあるのか?
②:仮にラマ教世界の政治権限があるとしてそれをどれだけの人民が認めているのか?
③:多くの人民が認めているとしてその認証は民主的プロセスによって成立しているのか?
④:近代社会の政教分離の原則論を逸脱しているチベットとラマ教の関係は受け入れられるものか?
⑤:チベット世界はラサとポトラ宮殿を中心とした世界観である認知が正しいのか?
⑥:仮に⑤が正しいとして、ラサに反抗的な少数部族の意思は無視できるのか?
⑦:チベット人民とチベットという概念はどこまで明確化できるか?
⑧:中国世界が行った侵略行為の一方で、中国がチベット社会に投下した資本の逆賠償権利はどうするのか?(それをチベットが自弁するのか?)
以上のような重篤な問題点を解決できないまま、チベットの人権論が展開されていることに非常に問題がある。
「ダライを疑え」というのが簡単な主張なのであるが、
一般的チベット知識があまりにも偏向的であることは、チベット=ラサ世界という部分だけでも理解できる人は理解できるだろう。
 あなたのチベット理解は、偏向していませんか?そしてその理解はチベットの全体像をどこまで把握できた上での見解ですか?



さて、「初夜権」は少し注目するべき問題なのであえて深く言及しなかったが
「処女」という価値については、ある程度の説得力を感じるだろう。
世界各地の物語にある処女と神様の話などは共通的神話・寓話としてもまったく社会的に荒唐無稽であるとは言えないだろう。
自由恋愛という形式で婚姻という社会的制約が確立する以前は、「集団婚」という世界である。
「集団婚」とは、特定の組織内の女性の所有権・所属先がその組織内全体であるという婚姻体系であると考えてもいい。
 部族単位で女性を囲う世界というのは、乱交状態というよりも、むしろ人口政策的見地で必要悪だった要素もあるので、嫌悪しないでほしい。
 蛇足になるが、現代社会は、「集団婚」に向かっている可能性もある。
 不倫が文化になり、ジェンダー論が衰退し、女性が異性への選択権を強く持つという世界が本義あるべき姿である。
 女性は特定の男性との婚姻契約に縛られず、好みの男性と性交する・・・性向を持ちえる。
女性が性的主導権を握るという形体の「集団婚」の将来像は遠くないかもしれない。
もっとも、男女平等社会で男性が淘汰される方がある意味、健全な社会が到来するかもしれない。
ダメな男は淘汰され、いい男だけが社会の残る・・・・・・淘汰される側は天然記念物として動物園で保護されるような時代の到来を冥王星は期待している。w












 



憲法再論
【2008/10/11 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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記事内のユーザータグ    国内政治       国内法       憲法再論   

唐突に共同企画を立ち上げましたが、
理由があります。
「論題はそこなのか?」サイトの外部協力者の再々登場を要請するためである。
今回は、冥王星とアシスタントSの共同企画の体裁を取っているが、この企画は以前から、
ある人の発議があって再考の余地ありとして判断を避けてきた。
しかし、冥王星個人としては、
憲法という国家の基本法の問題について、せっかく盛り上がった世論の憲法再考のムーブメントをこのまま滅ぼしたくない部分がある。
 冥王星は「護憲的解釈改憲論」であり、本来は、今の改憲尻つぼみの現況を決して悪いイメージはないのだが、逆に、議論しなくなった現況には嫌悪感を抱いている。
 改憲論は、改憲派が具体的草案提示に至らず、国民投票法の可決によって、改憲のムーブメントが先送りになり、逆に改憲のための議論が消滅するような状態である、と分析している。
 護憲派もそもそも現状に対してどのように「護憲」を守るか?という命題を抱えているはずだが、政局や詳細な政治課題を優先し、国家戦略的な基礎である憲法論を蔑ろにしている感じが拭えない。
 あえて、憲法再論というテーマを設けたのは、護憲・改憲というシンボリックな運動が目的化した活動になっていることへの批判もあるが、現状の社会規範と憲法判断のギャップを再考した上で、判例における解釈改訂の積み重ねという冥王星独自の「護憲的解釈改憲」運動という目論見がある。
 つまり、憲法条文の改訂ではなく司法判断による解釈の改訂で現行憲法の「より実効性あるものとする」というのが冥王星の主眼である。
 そこには、高い法知識を必須とするが、法学部出身ではない冥王星には限界があるので、閲覧諸氏に指導・教鞭頂けると幸いである。
取扱のテーマは大きく4つ
1・「国民投票法」の再評価
2・憲法判断から見る憲法の判例主義的側面
3・政治的配慮と法的配慮の挟間にある憲法
4・立憲主義と法治主義
『冥王星は小惑星なり』との共同企画であるが、
当方は1,3,4を担当する予定である。
尚、決して護憲・改憲という目的があっての記事ではなく、
「より良い憲法の在り方を探る」
ものである。
従って、護憲・改憲という二極論で思考・思索するような短慮な方には、面白くないと断言できる。
あくまでも、実態と憲法を前提として考えるものであり、独断・独善の専制的文面になることは回避しようがないので、そこらは差し引いて判断してほしい。
 
尚、協力者及びコメント参加者などはご自由に・・・・
尚、記事はシリーズ化する予定ですが、シリーズ外の記事を冒頓としてやるので、ご了承ください。



家庭教師先で感じたことを
【2008/10/10 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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 三日前のことなのだが、縁故で家庭教師を頼まれてしまったので、相手先さんの自宅を伺ったのだが・・・・
 世の中の格差というものを実感することは多少、慣れてきていたが世界が違う人はいると感じることがあった。
 冥王星も予備校講師として薄給だった時期は、家庭教師という副業に勤しんでいたわけで、仕事先のご家庭でご飯を食べたりしたこともあった。
 大学時代からもそういうバイトしていたせいで、経済環境の差異というものを痛感する部分はあったが、それでも許容できる範囲の格差だった。
 簡単にいえば、イメージが湧く富裕層の実態でしかなく想像の域を出ないものなのだが
今回は違った。
 なにより、最初から世界が違う。
 漫画のような話だと今でも「夢であってほしい」と思わなくもないのだが・その一部始終をここに

お迎えの人が駅前にいるらしくお迎えの人の携帯番号を教えてもらった。
(よく考えれば、お世話になる家庭の家の電話を教えてもらってないことは案外あるものである)
 お迎えの人と遭遇したのだが、いわゆる「運転士さん」「家政婦さん」でもない。
 メイドさんというか、
「メイド」さんなのだ。
かなり焦ったことは当然推測できると思う。
日本にホンモノの「メイド」など居ても遭遇できるものではないと思っていただけに
なぜか、嬉しくなかった。
なにより、そのメイドさんは高齢(50後半)であるが、メイド服を市中にさらさないように、ダッフルコートを羽織ってる。
憧れでもないが、「実在するメイドさんの肖像を勝手に妄想していた自分」に嫌悪感を抱いたことだけは否定できない事実である。
 紹介された旨とお迎えの旨を確認して、そそくさと車で移動。
 移動という時間もなく3分程度で壮麗な住宅街の中の豪邸に到着。
まず、第一の感想としては
豪邸豪邸というけど、”土地が広い”とか”内装が奇麗”、”外観が凄い”とか特異点があるが多いのが豪邸の特徴なのだが、
そこは、特徴がない。
失礼した。全てが豪邸という特異点を持っているのだ。
圧巻だったのが、守衛さんがいるのだ。漫画じゃあるまいし・・と自己嫌悪したが、確かにいる。
 門は観音扉式のもので、守衛さんの小部屋から手動であけるしかないらしい。
つまり、24時間勤務の守衛さんということになるんだろう・・・・・・三交代制ということは・・「銭勘定した自分に自己嫌悪」
漫画ではDoberman_Pinscher
とかシェパードが放し飼いされているのだが、そこは、違う。
(写真は、ドーベルマンとジャーマンシェパード)
 グレードデン・アフガンハウンド・ウルフ・ドック・グレート=ピレニーズ・マスティフとかです。
図でいえばこんな感じのが一杯いるんです
Alaskan_MalamuteGreat_PyreneesPyrenean_MastiffSpanish_Mastiff
写真撮れなかったのが悲しいですが、全部大型犬です。体長1mは余裕で超えるデカ犬です。
冥王星は犬好きなんです。かなり。家庭事情の問題もありますが、責任ある飼い主になれるとも思えないし、自分の嗜好で犬を飼う人間なんてなりたくないので、犬を飼えませんが、
犬が大好きです。猫なんて比較にならないほど好きです。
 以前から自分は番犬として軍用犬のシェパード・ドーベルマンが持てはやされる理由が理解できませんでした。
 そもそも両方の犬とも訓練によって侵入者を撃退する目的の犬ではありますが、彼らの訓練は撃退する技術であり、防犯技術があるわけではない部分が多いです。
 つまり、泥棒が侵入してから対応する部類であることを考えると、ドーベルマン・シェパードは防犯犬とは言えない部分があると思っていたのですが、
上にあげた犬種は見事に防犯犬としての歴史があるので、納得です。
 やはり「本当の金持ちは違うな」は違うな、という感想を抱きましたが、どれも高級な大型犬で4頭盗めば300万は軽くいくだろうと、拝金主義的な銭勘定をしてしまった自分に自己嫌悪に至りました。
 ちなみに、犬に名前があって、金持ちのセンスに絶望したのですが
巡(めぐる)、避(さける)、止(やめる)、諦め(あきらめ)
というネーミングだった。
色々な意味で絶望できるネーミングセンスながら、ヨダレを気にしないこの剛毅な奥方にも俄然とした。
 よく豪邸住まいの奥方というと高価なものを侍らせているイメージがあるが、その実態は案外質素だったのだが、やはり剛毅というか、豪放というか、人間の器が違う。
 犬がダラダラとカーペットにヨダレを垂らそうが怒らないし、着るものがそれで汚れても怒らない。
特段豪奢な格好しているわけではないが、なにか気品を感じるのは、なぜだろう・・・・
と考えていて分ったことだが、奥さんが来ている和服は「東京友禅」であろう。
 友禅というと、加賀友禅・京都友禅が有名だが、東京友禅は知られていない。江戸小紋の歴史と関わりを持つ東京友禅は、加賀・京都友禅が総合交流して類似化し、量産化し質がマチマチであるのに違って、独特の渋い色合いを出す名品である。
 名品というが、特段高いわけでもなく良品であることがマニアの中で知られているものであるが・・・
 それをなんとなく来ている奥方の年齢は50くらいだが、外見は30後半くらいとも思える。
 あまりにも和服が自然な着こなしだったので、年齢を多めに評価しているが、かなりの美貌ではある。
 家の内装もカラーセラピーの知識があるのか、安定性のある色彩を基調としてシックな雰囲気なのだが、密かに高級品を使っている。
 しかもブランドものではなく、名品と評価されるレアな良品である。
職人仕事の結集とも言える「欄間」(らんま)は、目の届くこともないが精緻の至りとも言える職人仕事とは予測がつく。
 いわゆる金持ちが「金を武器にして金でいいものを買った」とは明らかに違うものが多い。
 多少の美術史の教養と歴史教養があれば分かるブランドの名品なのだが、市場価格が低いものが飾っているのが素敵なのだ。
 ギラギラした金持ちとは違う「余裕ある金持ち・セレブ」という佇まいは優雅で批判しようがない。
 合理性のある家具の配置といい、遊び心のある収納などは凄かった。
 多少ながら美術の造詣があり、現代美術史を勉強している人ならば半日は写真を撮り続けても足りないくらいだ。
 世俗に疎い冥王星でも、知っている名品が鎮座していることを考えると一般の人は垂涎の豪邸かと思うが・・・・・・・・・

縁故紹介ということもあって、奥方は特段何事をいわず、娘さんを紹介してくれたわけだが・・・・・・・・・
 上品さがある女性というのは、言うことが違う。
メイド・家政婦がいても初めての来客には、奥方自身がお茶を出すそうだ。
その心を簡単に説明してくれたのだが、理があると思った。
彼女曰く
「家に訪れるお客に対しては、私と顔を合わせてお話するのが失礼のない家の責任者としての在り方だと思っております」
とのことだ。初見からメイドさん・家政婦さんに接待されるのは無礼というスタンスらしいが、確かにそうだと思う。
 これまで家政婦さんをフルに活用しようとして、目の前にある急須に目もくれず、家政婦さんにお茶を汲ませた奥さんがいたが、決していい気分ではなかった。
 もちろん、家政婦さんとしての仕事である領分を尊重してのことだろうが、初見ではそれは失礼というのも分かる。
 家庭教師としての業務は、簡単にいえば
「中学数学の学力向上」
というものだが、案外、数学の躓きで多い原因の一つである。
 もっとも、つまづきやすいのが、分数の積商算なのだが、中学の数学も全体的に障害になる。その次に行列・因数分解などが来るのだが、女子学生の最大の数学の難関は中学数学だろう・・・・
よくある間違いと躓きの傾向だったので、簡単な指導である程度は解決できる部分ではある・・・・・

 学習内容は、そんなに大変ではないのだが・・・・・・・・・・・・・・・・・・
冥王星は、そもそも中高生相手の仕事をやってるわけですが、最近小学生くらいが凄く生理的な反応需要が強いことが分かっている。
 いや・・・早い話ロリコンなのだが、三次元では反応しないはずだった。
「はずだった」という言葉の意味は、過去形ということなのだ。
イヤ・・・認めたくないことだが、
ストライクゾーンなのだ。
冥王星は、何度でも言うが
今、最高に萌えているのはけろけろ 「ケロちゃん」なのである。
しかし、暫定5位あたりにいる映姫映姫様リアルversionの出現にかなり狼狽している。
狼狽というか、激しく順位変動しているのだ。
 「俺の嫁ランキング」の暫定一位は、ケロちゃんなのだが・・・・・・1か月以内に逆転する可能性がある。
 なにより、罪な声である。その娘さんの声は、冥王星の好きな川澄綾子さんのような凛とした気品のある張りのある声なのだ。
 そして、そんな声の持ち主に「なじられたい」願望が・・・・・・・・・

すいません。しばらく激情と情動と痴心に満たされた人間の時が多いかもしれないので注意してください。
 
 でも、仕事先の娘さんに手を出すようなことはありません。
なにより、あくまでも2次元キャラに似ていることだけが「俺のジャスティス」であるわけで、本当の二次元に恋愛するみたいな状況になったら
「俺の嫁が悲しむじゃないか!」という冥王星の理性とも言えない抑止が働くのである。
だから、なんかあっても、悶々とするだけです。
 そういえば、最近、ツンデレキャラが微妙に再隆盛してきているわけですが、ツンツンツンキャラがデレってならずにずっとツンツンしているって設定もかなり、そそりますよね?




 
  





「愛国心」に想う(改訂)
【2008/10/08 】   冥王星      トラックバック(2)   コメント(0)
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 「愛国心」とは何か?
未だに、理解ができない。
国家を愛する心であるというが、現代の日本でいわれる愛国心は「滅私奉公、愛国心至上主義である」と解釈されるが、そういう言動としている当人が、イデオロギー的背景をベースにして、現代の日本の在り方を批判している様相を「愛国心」というのは説得力を感じない。
あるべき国家像の相違点があるので、理解できないものがあるが、
では「愛国心」があることが、国の利益に叶えるのか?という問題でいえば、歴史的には残酷な結果を残す側面もある。
 愛国心という暴走を日本は過激派中国人民の「愛国無罪」に見ることもできるし、テロリズムにも見ることができる。タリバンなどは「愛国心」溢れた義士であり、時には義賊であったりする。
 愛国心を免罪符にするような言動は、まるで「愛国無罪」を叫ぶ中国人・テロリズムで己の思想を実現しようとするタリバンと大差ないだろう。いや、タリバンはまだ己の生命をかけているのだから、必至さが違うし、責任感が全く違うとも言える。
 机上論でどんなに愛国心を叫ぼうとも、その実行実態が伴わないような人間の「愛国心」を評価しようもない。
 「愛国心」ではなく「愛する存在のために」と命を散らす人間の自己犠牲の心は、それは尊いものだと思うが、今の「愛国心」に実態を感じない。
いや・・・机上論で「愛国心のない」と思う人間をたたくために、「愛国心があるべきだ」と勝手に明言して、自由主義的価値観を否定しているに過ぎない可能性もある。
 ワレサさんは東欧の亡国の人間で、国防では予備役についている。
歴史的にポーランドと言えば、朝鮮半島の歴史以上に、独立性を保つために血汗を流し、独立を確立した歴史がある。
長いポーランドの歴史で多くの愛国者と歴史上に称される偉人がいるが、その中で「ポーランドのため」とは言っても「国家のため」と演説した事例は知らない。
 歴史的に”国家概念”を持ち出せるような背景があるのは、世界史上では、ナポレオンのフランス共和制時代が最初だろう。

 ナポレオンならば「愛国心」を持ち出して兵士を鼓舞した事例があるが、ナポレオンは愛国者とは取り扱われることはない。

 つまり、歴史上で愛国者としての尊称が得られたのは、現代の愛国心とは実態を異にする可能性があるということである。
 あくまでも歴史的な問題であって、愛国者というのは、様々な評価点があるだろう。
しかし、”愛国者であるから正しい”なんて保障はないにも関わらず、愛国者であることを前提にした価値観を振りかざすようになった。
 これを危険視することもあるが、むしろそのマインドの背後にある「「愛国心の本質」というものにこそ問題があるかもしれない。
 
愛国心の実態は、「己のイデオロギーの実現による国家の繁栄でしかない」という可能性である。
つまり、愛国心を持ち出す当人は、”己のイデオロギー以外”での国家の繁栄・国民の幸福は認められないという可能性がある。
その狭量さは別にして、「イデオロギーを目的化した」という末路は、如何にも情けないものがあるだろう。
政治思想は、各人が幸福に生きるための方法を考える手段でしかない。
目的は「各人の幸福の実現である」はずが、知らない間に「イデオロギーの実現が目的化」してしまったのだろう。
それは、愛国心を唱える側にもあるが、その愛国心を否定する側にも突きつけられる問題だろう。
愛国心を否定したとして、手段の否定でしかなく、目的達成のために、愛国心が機能を果たす可能性があるなら、否定する必要性はない・・という現実もあるだろう。

もっとも、愛国心で国民が幸福なった、という事例を知らないし、現代社会の多様性ある幸福感を考えれば、愛国心という思想性での幸福実現は不可能に近いだろうが・・・

同時に理解できないものが他にもあるのだが、 
「国家を愛する心とはどのような心であればいいのか?」という問題がある。
 ストーカーの愛と親子愛は愛であるが、同質ではない。
 無慈悲に愛情を注ぎ擁護することが国家のためになるわけでもないし、その逆に国家に警鐘を鳴らす行為も愛国心である。
 つまり、国家に完全に従属しない愛国心が存在するのではないか?という問題がある。
しかし、現代の愛国心はそのようなものは認めるわけではなく、極論的に国家意思は個人意志を凌駕するという指摘さえ存在するのではないだろうか?
 <
アナーキストは無政府主義者と理解されるが、これは日本の思想限界を明確に例示していると冥王星は思う。
 そもそも、「政府がない」という思想性ではない。政府が行う政治行動は最低限度に収めるべきであるという自由主義思想でしかない。
思想体系化すれば、コスモポリタニアン・コミュニタリアン・リバタリアンなどもアナーキストの体系に入るだろう。
 小泉政権の安価な政府論は世界的にいえばは、、リバタリアニズムであり、アナーキズムが母体なのである。
 これは、何も冥王星だけの認知ではなく、世界的な認知であり、むしろ、アナーキズム=無政府主義と解する思想家として評価される部類を知らない。
 もっとも、社会学者などは思想史をまともに履修しないで社会システム論に流れた評論家もいるので、アナーキズムの誤解があるのは仕方ないが、アナーキズムの誤解は日韓独自の傾向であることは、多くの人が論じる部分である。
 アナーキズムについての説明になったが、アナーキズムは国家を否定するものであり、「愛国心」というベースはない。しかし、愛国心というベースのない思想性から、小泉政権のベースがあるというのは皮肉なことであろう。
 「国家よりも家族を愛する心が優先した場合、国家のためにはならないことをやることも許される。」という価値観もあるコミュニタリアンの組織主義・家族主義的な思考であるが、これは「愛国心」ではないと断定することもできない。
 愛国心とは当人がそれは「国のためになる」と思っている思想に過ぎないものであり、それが「国のためになる」保障などない。
 もっとも、そういう保障もないのに、持論を正当化し、それを否定する論理を「非国民」と否定した結果が敗戦と解される状況なのだが・・・・
 非国民をレッテルを貼られた冥王星の祖父母は正しく戦争の結末を予言した。予言したというよりも、歴史的経験知やロジスティクスなどの論理で政治的に勝利できないという主張をしていた。
 非国民である祖父母は「愛国心がなかった」わけではない。
 彼らは愛国心があったからこそ、地元で反戦運動を行い、間違った道を進む日本を憂いていた。
しかし、彼らに突きつけられたものは、「非国民」という結果論とは逆の事実だった。
 祖父母は自分達の主張が理解されなかったことを恥じているようだが、正しかったことは歴史的事実であっただろう。
 祖父母を非国民とナジッタ自称「愛国者」は結果論でアメリカに日本を売った売国奴なのである。

笑えない皮肉であると同時に、非国民という批判の空疎さを例証しているのである。
 拉致家族会を支援する行為が愛国者だという人は、かの問題で国家が危機にならされている側面をどう弁明するのだろうか?
 拉致問題を優先することによって、世界の安全保障が蔑ろになった日本の政治の状況を他の国が暗に批判したことがある。
 しかし、そんなことは直情的な拉致問題優先とする国民には届きようがないことである。
彼らは戦中に「非国民」とナジッタ国民と同じく、日本国の安全を蔑ろにした「売国奴」なのである。
 拉致問題という小さな問題と、日本国だけではなく世界を巻き込む安全保障の問題では優先順位が違うのは当然だろう。
 そもそも、自分達の安全が蔑ろになっても、拉致問題を解決したいならば、単身で北朝鮮に乗り込めばいいはずだ。
 拉致問題を優先するために、他人の安全保障まで犯すような姿勢を世界は冷笑しているのである。
冷笑している事実は、明確化されないのは拉致被害者家族を思っての配慮であるが、心中にあるのは冥王星だけではない。それこそ、外交現場の当事者の口からも発せられているのだ。
 外交音痴で優先順位さえ客観的に冷静に判断できない拉致問題を優先する民意には、売国奴というレッテルが似合うだろう。
 むしろ、拉致被害者という私権の射程を重んじて、世界的公益性を蔑ろにした日本外交の結果論的な罪は深いだろう。
 もっとも、世界の誰も批判しないわけではない。批判しようとも届かないだけである。

 結局は愛国心とは、国家を建前として自己論理を正当化する論理のない人間の弁明手法なのではないだろうか?
 プライオリティさえ決めれない・目的と手段を摩り替えているだけの外道者が語るが「愛国心」なのかもしれない。
 「『愛国心』とは心にあるもので、口に出すものではない」

という言葉があるがその通りだろう。言葉にするより、行動で示せという感覚もある。
言葉を実態化・具現化するには行動が必要であるが、愛国心ある識者が愛国行動したという判断が断定できるとは思えない。
 パトリオッティズムを否定しない。しかし、その人の言説が本当に国のためになるとは限らないことを精査して判断できるようになるべきだろう。

愛する心は表記されないという愛国者がいるが、さて、そうだろうか?
そもそも、愛の表現の形態は様々で物品でそれを表現することが可能である。
ただ「愛しています」ということで愛国心なら、ポーズだけで済むわけで、ポーズだけなら誰でもできる。
その程度のものが「愛国心」でもあろうとは言われても仕方ないほど、愛国心という言葉は抽象的かつ具体性がないものであることは言うまでもない。

 なにもしないで心で思っていれば、それが愛国心になる。非常に便利な方便ではないだろうか?私の尊敬する愛国者のコシューシコは、国家のために私財を売却し、己の生命を賭して活動し、敗れ去った。このような人間から「愛国心」を体現されれば理解もしよう。
しかし、何もしないで心だけを叫ぶ輩は、所詮は、口だけというそしりを免れない。
満員電車で立っている妊婦さんを目の前にした人間があとになって
「譲るつもりだったんですよ」
という心はあったんですよ、という弁明をしたケースがある。
愛国心という心はこの程度でもありえるのだ。

辛辣に表現すれば、自称「愛国者」よりも多くの税金を納めている「非愛国者」はどれだけ国家に寄与しているのか・・
ネットに生息する愛国思想の強制者は概して、ニートの可能性を感じる。そんな彼らが税金をどれだけ納めているのだろうか?
物理的な愛国の証明さえ愛国者は自分の正当化としてプレゼンしない。
銀河英雄伝説で「ヨブ・トニューニヒト」という戦争煽動政治家がいる。
彼は、対立する体制への戦争を煽るが、彼自身が兵役につくわけでもなく、彼の親族も兵役になく、彼は後方支援もしない。銃後で一人己の安全を図っていた政治家として作中で批判されるが、
彼は自称「愛国者」だった。
こういう愛国者もありえることは、銀河英雄伝説の田中芳樹氏の見解なのだろう。

上滑りな「愛国心」という言葉の本質はこの作中にあるのではないだろうか?

「愛国心」を否定するわけではない。
しかし、それを自認する以上は、それなりの対価を果たしていないでは、まったく説得力さえないし、同時に、本当の意味で国家のために犠牲を払った人の「愛国心」とは別物であり、本当の「愛国者」への冒涜になる可能性もある。
自分を「愛国者」として規定し、それを強制する人間の胡散臭さと具体性のなさはネットでも良く見ることではあるが・・・・・・・・
言葉の上滑り虚実さなどは「愛国者」の売りな可能性を示唆できるかもしれない。
「愛国無罪」などという言葉を否定している「愛国者」を見ると滑稽極まりないのだが、当事者はそれも理解できないほど、耽溺し思考停止しているのであるが、指摘すれば逆上する、理解できない、というオチが経験でも理解できているので、しないだけのことである

最後に、愛国者として著名な偉人に
「コシューシコ」・「コッシュート」の両名様へ

お二人の時代の「愛国」とは概念が違う現代の「愛国心」はイデオロギーとしての自己正当化の擬似的理論武装ですが現代社会の「愛国心」は国という肖像が違います。
お二人にとっての愛国心とはその地域と地域の人民愛に基づくものでしょうが、
今の愛国心とは「己のイデオロギーの正当化のための愛国」というものです。
そんな上滑りな愛国心という言葉とお二人の「愛国心」が一緒にされることはありません。
だから、お二人は静かに母国の英雄として、人民の幸福を願ってください。
愛国心の実態は、「己のイデオロギーの実現による国家の繁栄でしかない」という可能性である。

現代人の文章に潜む野獣的傾向
【2008/10/07 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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 整理した記事を書くべきなのだろうが、愚痴としてスルーしてほしいのだが、
よくただ感情を吐露しただけのコメントが出ているのだが、そういうコメントや記事を当人はどう思っているのだろうか?
 人間の感情はそれは尊重されるべきだが、
「私は○○と思った。」というのは小学生の感想文である。
小学生を否定するわけではないが、「○○と思った」という理由・根拠にこそ本当の価値があるのではないだろうか?
 単純に「私は○○と思った」という事実関係だけで、お互いに同族意識や価値観の共有化を図るような傾向があるが、それが組織化して果たして健全でありえるだろうか?
 冥王星はそうは思わない。何より、<「○○と思った」理由・根拠>という問題でお互いに共通認識には立てることはあっても、結果論だけで組織化しても、やがて分裂するのは目に見えている。
 「○○と思う」という政治意見は尊重されるし、しかし、<「○○と思う」理由・根拠>さえ語れない言動が説得力を持つものではない。いや・・むしろ、その程度の感情論は、その感情論を組織化して正当化する目的があるのだろう。
 感情論を共有化して大多数になれば、それが正しいと規定できる民主主義というものは、そのような暴走過程を歴史的に歩んでいるのも否定できない事実である。
 しかしながら、その陳腐な感情論も理由・根拠を問い続けることで様々な問題点が浮かび上がってくるものである。
 そもそも、その問題点を解決するためにも議論があるのだが、ただ「○○と思う」という理由・根拠も出さないでは、それこそ議論の余地はないのである。
 むしろ、そのような「○○と思う」という感想文は議論からの逃避というべきだろう。
 その逃避を悪徳とは言えないが、相互合意によって形成される社会構造を破壊させうる言動という可能性は言えよう。
 もっとも、当人がそのような問題意識がないからこそ、単なる感想文でもいいと思っているのだろう。
 感想文がNGではない。よりNGに近いエゴイズムでしかないというだけの問題でもある。
 同時に、現代社会の哲学・倫理からしても、感想文は単なる堕落にしか過ぎないのも言うまでもないだろう。
 もっとも、現代社会の愚民は直情的な感情論こそ価値があるのかもしれないが・・・・

「ごんきつね」の学習指導案をみて
【2008/10/04 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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これでお聞きながら・・
「ごんきつね」の学習指導案
これを見てください。
感想くださいw
というか、あらすじを忘れてる人いると思うので、どうぞ・・・・・あらすじ

オイラはこの残酷物語を小学生に教えるのは良くないと思っていたりします。
これが何かを教えてくれるのでしょうか?
「続・ごんきつね」を誰でもいいので書いてください


BPOリリース「光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見」
【2008/10/03 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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 今回の記事は、光市母子殺害事件に関する江川紹子氏の見解について のリンクものです。
 先に「光市母子殺害事件に関する江川紹子氏の見解について」を読んだ上で通読されることをお薦めします。

BPOリリース「光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見」が出ている。
BPOも果断なスタンスである。
委員会では、裁判員制度の実施を控えて、裁判報道のあり方についての議論が活発になされることに資する意味で、この報告書を委員長の前文を付して、ホームページ及びブックレットで公表することをきめた。

「裁判員制度の実施を控えて、裁判報道のあり方についての議論が活発になされることに資する意味」とは、大きく出たと思うが、放送局自身の倫理問題の側面に対する責任がBPOにあるので、これは当然だと冥王星は思う。

「放送倫理検証委員会委員長  川端和治の見解」
裁判報道にみられた問題点の核心は、多かれ少なかれすべての番組が、「公平・正確・公正」の原則の尊重という点で不十分であったところにあるので、裁判報道全体の倫理水準を問題とすることが必要であり又重要であると委員会が判断したためである。
裁判員制度の実施を目前にしている今日、裁判報道についての放送倫理はどのようなものであるべきかが、真剣に問い直されなければならないことは、過去の幾多の事例に照らし明らかである。それが怠られれば、マスメディアの問題のある報道に不当に影響された裁判員が、法廷に提出された証拠によらない判断をして、えん罪を作るという事態さえ発生しかねない。あるいはそのような事態の発生予防を口実とした放送内容の規制の動きにも抵抗できないであろう。

各局の事件報道への自己見解はおおむね、中立性公平性を欠いたことを部分的に認めているようである。
もっとも整理されている意見がテレビ朝日のワイドスクランブルの回答だろう。
【意見1 裁判を主宰する裁判所の役割を忘れていなかったか】
裁判を主催する裁判官が認めたからこそ、被告・弁護団がある種"荒唐無稽"と言われた陳述をしたことは理解しているが、その裁判所の判断の是非を扱うことは考えなかった。「なぜ認めたのか」その意義については、番組内でもっと考察すべきだったと反省している。

 多くの司法判断の報道では、主観的結論が全面にでてしまう。
 傍論での違憲判断の提示でも事実として「違憲」という意見があるに過ぎないこと、法的拘束性があることを明示しない報道など、裁判においての主題が加味されない報道が多い。
 つまり、係争された争点・論点から離れた話を報道してしまうことが多々あることにあるだろう。
 立川ビラ巻き裁判などは、「建築物侵入罪」が争点であり、ビラ巻きの自由などは争点でも係争の対象でもなかった。(いや、ビラ巻きの正当性の射程はある程度の判断が提示されている)
 つまり、報道が報道の主観で極論を提示してしまう危険性があることだろう。
 もっとも、できるだけ簡単に伝える「知る権利」の需要がある以上は、それを叶える責務が報道にあるのも事実だろう。
 つまり、報道の責任もあるが、視聴者側の裁判報道の見方も重要な問題だろう。
【意見2 本件放送は、刑事裁判の「当事者主義」を理解していたか】
光市母子殺害事件とその裁判の大きな特徴として、被害者遺族である本村洋さんが、裁判の節目節目で自らの意見をマスメディアに向けて発信し続けた点が挙げられる。
この本村さんの活動こそが、それまで省みられなかった被害者・遺族の「地位」を向上させるという司法制度の改革を促進させたことは事実だと思う。
しかし、極めて論理的に毅然とした本村さんの姿を多く紹介することで、視聴者に「もし自分の家族が殺され辱められたら」と想像させ、過度に本村さんに思いをよせる"世論"を形成するのを助け、結果的に「当事者主義の欠落」という指摘を受ける事態に至ったことは否めない。
来年から導入される「裁判員制度」を考えると、今後の裁判報道のあり方について多くの反省点が浮き彫りになったことは事実として受け止めたい。

「本村さんの活動こそが、それまで省みられなかった被害者・遺族の「地位」を向上させるという司法制度の改革を促進させたことは事実だと思う」という見解には冥王星は疑問がある。
単純に被害者感情がメディアに乗る環境になっただけで、「地位」が向上したという論拠はないだろう。むしろ、その「地位」は感情論の産物でしかなく、表面的な救済でしかなく何も被害者を救うだけの役割を果たしているものではないだろう。
 つまり、「地位」向上というのは、あくまでも妄想に過ぎない。単純に、相対論で被告の社会的権利の制限という被告の不利益を誘導したに過ぎないと思う。
【意見3 本件放送は、弁護人の役割の認識に欠けるところがなかったか】
差し戻し審での被告・弁護側の主張は、正直驚きは大きかった。
「ドラえもんが…」「復活の…」という証言については、「真実は決まっていると高をくくっていた」つもりはないが、限られた放送時間の中でも、もう少し前後の文脈及び発言の経緯を厚めに扱えばより深く全体像というものを伝えられたのかもしれない

 全体像を伝えられる報道は難しい。しかし、その努力を怠ったという自覚と反省でもっと全体的で公平性のある裁判報道を目指してほしい。
【意見4 本件放送は、被告人の人間像を捉え損なっていないだろうか】
元少年が事件当時、異常な状態を引き起こしやすい生育過程でのさまざまな問題(実母の自殺・父親のDVなど)が、指摘された。育成過程についての取材については、たとえば近隣住民からの証言を得るなどを含めて、さらに綿密にできたはずだと、現在の時点では多くの反省点があったと思う。

 法廷で語られる部分である被告人の人間像をベースに報道していたのだろうか?
 見たことがない番組なので語れないが、悪意的一面性だけでの報道が想定されそうだ。
【意見5 本件放送は、裁判の全体を見ようとする意欲に欠けていなかったか】
裁判の全体像が描かれていないとの指摘は真摯に受け止める。番組としては放送ごとに事実を伝え、テーマを設定し、弁護団側の主張も伝えることは常に意識していた。
しかしながら結果として、被害者遺族である本村さん寄りの意見を集約しているように見えたとしたら、改めて反省すべきだと思うし、今後の裁判報道では、特に意識してこの反省を活かしてゆきたいと思う。

 番組としては、OPENな原告の情報を提供する方が安易だったことだろう。
 報道の偏向は、番組自身の問題もあるが、視聴者にも突き付けられるべき問題ではないだろうか?

冥王星の私見

 BPOなどの報道倫理組織が提言できる環境はとても重要な放送倫理のために有用だろう。
では、視聴者には、視聴者の倫理が働くか?といえば、働かない。
むしろ、持論を正当化するために感情論で「感情武装」してしまう。
感情武装は共有化できないものであり、共有化できないにしても尊重しなければならない自由権であるが、それを根拠に他人を侵害することは許されないはずである。
 その結果、安田弁護士の弁護団が弁護活動に支障があったという事実関係を
視聴者自身が総括する必要性があるだろう。

橋下弁護士の「懲戒請求」は報道と視聴者に突きつけられた「視聴者と報道と司法の関係性」という意味では大きな波紋を残したことは言うまでもない。
 感情武装で暴走する民意は、感情論の行為を免罪符に他人を傷つけるものである。
 イラクの人質事件で、人質となった被害者を叩く民意は、被害者を加害者に貶めただけではなく、その家族まで危害を加えた。
 内心の自由は認められるものの、それが免罪符になって他人の権利を侵害するような行為が許されない。
 同時にそのような行為を扇動するような報道は放送倫理において、自主的反省を求めるべき対象ではないだろうか?
   

光市母子殺害事件に関する江川紹子氏の見解について
【2008/10/03 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(9)
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橋下下弁護士の懲戒請求に関する判決が出た。
結論からいえば、原告勝訴である。橋下弁護士の敗訴である。
今回は、懲戒請求判決とは別に報道倫理について考えるために、二回に分岐した。
なお、BPOの見解記事は、メルマガ記事の焼き直しであるので、関係者各位は留意してほしい。
橋下知事に賠償命令 弁護団懲戒呼びかけ「不当」…広島地裁
橋下徹 大阪府知事 山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審を巡り、被告弁護団の4人(広島弁護士会)が、弁護士でもある橋下徹・大阪府知事に対し、テレビ番組で、弁護団への懲戒請求を呼びかけられたことで名誉を傷つけられ、業務に支障が出たとして、1人300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が2日、広島地裁であった。橋本良成裁判長は1人200万円、計800万円の支払いを命じた。橋下知事は控訴する意向を明らかにした。

 判決で、橋本裁判長は「弁護団が虚偽の事実を創作したと(視聴者に)思わせる(橋下知事の)発言は名誉を棄損した。マスメディアを通じて公衆に懲戒請求をするよう呼びかける行為は、懲戒制度の趣旨に照らして相当性を欠き、不法行為に当たる」として原告側の主張を認めた。 判決によると、橋下知事は知事就任前の昨年5月27日に読売テレビが放送した「たかじんのそこまで言って委員会」に出演。差し戻し審の被告の元少年(27)=死刑判決を受け上告=の弁護団の主張が1、2審から変遷し殺意や強姦(ごうかん)目的を否定したことを批判し、「弁護団を許せないと思うなら一斉に弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい」と視聴者に呼びかけた。
 橋本裁判長は、広島弁護士会に寄せられた計約2400件の懲戒請求は、橋下知事のテレビでの発言が契機になったと認定。「多数の懲戒請求に対応するため、原告は答弁書を作成しなければならないなど相応の事務負担を必要とし、それ以上に精神的損害を被ったと認められる」と言及した。
 橋下知事の話「弁護団、遺族に大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。裁判所の判断は重く受け止めます。私の法律解釈、表現の自由に対する考え方が間違っていました。判決が不当だとは一切思っていませんが、3審制ということもあり、高裁の意見をうかがうために控訴したい」

「マスメディアを通じて公衆に懲戒請求をするよう呼びかける行為は、懲戒制度の趣旨に照らして相当性を欠き、不法行為に当たる」
懲戒制度の趣旨とは何だろうか?判決文の裁定を参照したいのだが、判決文がないので困っている。
以前から参考にさせてもらっているサイトを簡単に整理して説明したい。

刑事弁護を考える~光市母子殺害事件をめぐって
江川紹子さんのブログなのだが、比較的面白いと感じられる部分が多い。
「弁護士がワイドショーやバラエティ番組に出演するのは、法律的な説明や理性的な解説を加えて、話が感情だけに流れないようにすることに意味がある」と思っていたが、橋下氏はまったく逆。
 人々の怒りの感情をあおり、番組を盛り上げる役割に徹していた。弁護士というより、まるで大衆受けを狙う人気取りのタレントである。橋下氏を応援する人たちは、「彼は弁護士として、懲戒請求という制度を視聴者に教えてあげただけ」と言うが、実際の彼の発言はとてもそのようには聞こえない。

 江川氏の感想に同感するのだが、「弁護士としての橋下氏ではなく、一市民としての橋下氏の義憤を喚いていただけに過ぎない。」という見方もありではないだろうか?
 江川氏の言説の通り、専門家としての発言を求める局面での、慎重な言説は重要だと思うし、江川氏はゲスト・評論として呼ばれる時の姿勢としては、「そうあってほしい」と思う。
 江川氏は番組を盛り上げるという出演者としてのスタンスではないだろうが、橋下知事は、盛り上げるという個性をテレビとして求められているのかもしれない。
 そこに、法律番組としての弁護士としてのモラルが問われたわけで、今回の事件で橋下知事の弁護士としてのモラルは批判されることになった。
 「被告人がどんな冷酷で狡猾な人間であっても、その利益のために最大限の努力をするのが弁護人の仕事だ。」
 被告人がひどい男だからといって、その職責を果たしている弁護人に懲罰を加えて、弁護士としての活動をできないようにしてしまえとテレビで煽るのは、やりすぎだ。
 ましてや、刑事手続きにおける弁護人の役割をよく知っているはずの弁護士が、先頭に立って視聴者をけしかけているのには、かなり唖然とした。

 弁護士法
第一条  弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
2  弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。

とあるように、被告・被疑者の権利の擁護も弁護士の職務であるのは言うまでもない。
日弁連では以下のように、「悪い人」を弁護する理由を説明している。
弁護士は、刑事事件において、弁護人として被疑者や被告人の弁護活動をします。
 「どうして悪い人の弁護をするの?」
こんな疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、捜査の対象となったり、刑事裁判を受けることになったり、犯人であるかのような報道がされたりしても、本当にその人が犯罪を行った「悪い人」であるとは限りません。
弁護人の最も重要な役割は、えん罪の防止です。えん罪は、無実の市民の自由を奪い、その家族の生活を破壊する最大の悲劇です。えん罪の多くは、捜査機関が犯人だと決めつけ、発表された情報にもとづいて、多くの人がその人を犯人だと思いこみがちな状況で発生します。だからこそ、多くの人が被告人が犯罪を行ったと思っている状況でも、無罪の可能性を追求する弁護人の役割が必要なのです。
また、行き過ぎた刑罰が科されたり、違法な手続が見逃されたりしないようにするためにも、弁護人は被告人の立場から、意見を述べ、証拠を提出します。
このような弁護人の活動は、まさに人権擁護と社会正義の実現のためのものにほかなりません。
あなたや、あなたの大切な人にいわれのない疑いが向けられたとき、弁護人は、最後の一人になっても、ベストを尽くします。

民意は被害者感情に偏向し、その偏向を誘導するようなメディア報道が多々あったと感じる人も少なからずいます。
 松本サリン事件・痴漢など冤罪の可能性を想定しての弁護活動まで妨害しようとする行為は、決して正当化できようもないことではないでしょうか?
 民意は正しい、という人の見解は、民意を尊重するという政治システムの大前提としたものです。
それに対して、逆らい抗弁し、別の民意を創出する活動は許されるものでしょう。
 江川氏の評価を否定する部分はなく、むしろ、完全同意になるのが悲しいことだが、冥王星も江川氏と同じ感想に至った。
 橋下氏が、懲戒請求を呼びかけたのは、次のような理由からだった。
「弁護団は、1、2審では争わなかった犯行態様について、差し戻し審で新しい主張を始めた。しかし、主張を変えた理由を遺族や社会に説明してない」
「十分な説明をしない弁護団に対し、世間は『『刑事弁護なら何をやってもいいのか』と憤っている。弁護士の信用を失わせ、品位をおとしめており、十分に懲戒事由にあたる」(9月6日付産経新聞より)
 だが、刑事事件の弁護人の仕事は、「遺族や社会に説明」することではない。弁護人の役割は、もっぱら被疑者・被告人の利益を守ることであり、法廷では裁判官に対して説明や立証を行うのが任務だ(まして、現弁護団は国選弁護人ではなく、彼らの活動に国民の税金が使われているわけでもない)。

 橋下知事の言動が「品位ある」言動とは冥王星は解釈できない。
 弁護士の責務として優先順位が、「被告の利益を守ること」、その次が「社会正義を貫くこと」という認識がある。
 多くの被害者感情を優先する民意には、被害者のための社会正義しか見えない視野狭窄にあったように思える。だからこそ、被告の利益など認めないヒステリックな世論が展開された部分も感じる。
 しかし、それは民意であって是認するしかない部分があるにしても、橋下弁護士は違うだろう。
 メディアでの捲し立てる・煽動するような言動は、品位を感じるものではないし、被告人の弁護活動を阻害するという意思が見えてしまう。
 弁護士法では
 第二条  弁護士は、常に、深い教養の保持と高い品性の陶やに努め、法令及び法律事務に精通しなければならない。

 冥王星は橋下知事に高い品性を感じれない。感性的なものでしかないが、江川氏の指摘する通り、テレビに出演する橋下弁護士に、法的な課題は、弁護士橋下としての言説を望むものであって、個人の感情論をダダ漏れにした言動を期待していない。その言動が違法性を孕むものであれば尚更だろう。
 弁護団の言い分を聞いてみると、主張が変わったのは、被告人の荒唐無稽な弁明のためだけではないらしい。
 例えば、被害者2人の遺体を解剖した法医鑑定書と判決で認定された犯行態様には食い違いがある、という。その食い違いが、「殺人ではなく傷害致死」との主張を裏付けるに足るものかどうかはともかく、このままでは死刑判決が下される被告人の刑を少しでも軽減するために、可能な主張はすべて展開するのは、弁護人としては当然の責務と言えよう。
 それに対しては、検察官が反論する。
 そして、最後に裁判官が判断する。弁護側の主張によほどの説得力がなければ、裁判所はそれを退けることになるだろう。
 そうやって、検察と弁護側が違う角度から光を当てながら、真相に迫っていくのが刑事裁判だ。
 弁護人が「世間」が納得しない主張はするなということになれば、耳目を集めた凶悪事件では、実質的な弁護活動はできなくなる。

 冥王星も同感である。被害者感情を優先する民意は、明らかに視野狭窄でしかない。
 視野狭窄は仕方ないにしても、弁護活動側が被告側の立場になって抗弁する権利を否定してはならないのも事実だろう。
 裁判とは、当事者がお互いの主張をぶつけ、法的正義を実現する空間である。
そこで、民意の感情で「認められない」という理由で、抗弁権を奪うような蛮行を行っていいわけでもないだろう。
 橋下氏らテレビでの発言の機会が多い弁護士は、本来は「世間」に対して「刑事弁護人の役割はこういうものです」と説明をし、冷静な対応を求める立場ではないか。
なのに、ただでさえヒートアップした「世間」に対して、燃料を送り込んで団扇でバタバタあおいで炎を大きくしている感じさえする。

 江川氏の主張は理解する。では、世間が本当に橋下弁護士にそのような職業人としての説明を求めているのか?というのは正直疑う余地がある。
 冥王星は江川氏よりもテレビを見ない人間だろうが、少なくとも橋下弁護士はタレントとしての活躍が主体であるように感じる。
 面白可笑しく法律問題を取り上げ弁護士の見解の相違点を逆に話題にして、弁護士同志の喧嘩を笑いにしている。
 出演弁護士のスタンスは理解しようもないが、法解釈の射程は判例などの司法の事例をもって暗示するべきものであり、彼ら弁護士の見解が司法として確実に反映されるわけではない。
 冥王星は、彼らには、「この事例だと過去に類似したこういう判例があります」という司法事例を大前提にしたプレゼンを求めるべきだと思っている。
 そもそも、弁護士が安易に法解釈をダラダラ述べることに一般的に効果があるとは思っていない冥王星からすれば、弁護士活動をもっと頑張ってほしいと思う。
 世論を喚起して法的正義を実現するのはある意味では、非弁護士の連携に近い行為だろう。
 安田弁護士の欠席の最大の理由は、安田弁護士は弁護人を引き受けて2週間で準備ができていない、というものだった。
 高裁判決から最高裁が指摘した弁論期日までちょうど4年。最高裁の裁判官が、弁護側・検察側の主張を聞くための準備をするのに4年もかかったのに、弁論を行う弁護人には1ヶ月もやらないというのは、どうかと思う。

 刑事事件は膨大な資料を必要とする。
司法自身が4年も準備期間を必要としたことに対して、着任して間もない弁護士が1か月は確かに、時間不足という弁明も仕方ないだろう。
 おそらく最高裁は、被告人が裁判引き延ばしのために弁護人を交代させたのだと考えたのだろうが、弁護人が弁論の延期申請を出しても、事情をまったく聞かずに却下するというのは、あまりに態度が頑なだったのではないか。

 指摘に関しては、江川氏と同じ感想である。せめて最高裁は、事情を聴くだけ聴く必要があったと思う。
最高裁が1、2か月の期日延期をし、それをきちんと伝えていれば、遺族もあんな風に傷つくことはなかったのに……と思う。「リハーサル」を持ち出した弁護側だけでなく、裁判所も遺族に対してあまりに無配慮だったのではないか。その点を指摘しない橋下弁護士は、あまりにアンフェアだ

 確かに言えることだろう。被害者遺族も長年の係争に耐えてきた経緯があり、欠席という結論に至ることは裁判所も想定できただろう。公平性を配慮すれば、多少の時間を弁護側与えることこそ、「社会正義の実現」だと思える。
 江川氏の橋下知事の評価の評価はかなり低いが、橋下氏は弁護士であるなら、係争に追われる経験があったはずだろうが、他人には配慮できない人なのだろうか?と思う。
橋下氏は、懲戒請求をする者の負担については、何も述べていない。
 人に懲罰を与えて欲しいと求めるのであり、場合によっては弁護士の職を奪おうという請求なのだから、当然厳格な手続きがなされる。請求した側も、弁護士会に書類の提出や口頭での事情説明を求められることがある。
 請求の内容によっては、懲戒請求をされた弁護士の側から訴えられる可能性もある。実際、懲戒請求をした側が敗訴し、50万円の慰謝料を支払うよう求める判決が出ているケースもある。橋下弁護士は、そういう負担やリスクを説明せず、ただ「誰でも簡単に」できると、気楽なノリでしゃべっている。
 そのくせ、自分は懲戒請求をしてない。「時間と労力を費やすのを避けた」そうだ。橋下弁護士の話に共感して懲戒請求を行った人たちの「時間と労力」はどうでもいいのだろうか。煽るだけ煽って、自分は面倒だからと何もしないのでは、無責任のそしりは免れない。

 彼自身が煩雑な懲戒請求を出していないことは非常に問題があるだろう。扇動するだけ扇動しておいて、自分は何もしない。そんな先導者は扇動と言われても仕方ないだろうし、無責任と言われても仕方ない。
 弁護士法に懲戒請求に関する規定が記載されているが、非常に難解なものである。それを法的無知な市民に背負わせた橋下氏の言動は軽薄という誹りに値するだろう。
 逆に、懲戒請求者に不利益を誘導するような結果論さえ残っている。
 もっとも、あの程度の扇動で「義憤」を催すような”偏向的な社会正義”しか考えられないバランスの欠いた人間が多いことの方が、冥王星としては不思議である。
 メディアの被害者報道に感情論的な支配を受けて軽挙妄動してしまう浅慮な感情論的な日本人には逆にいい薬だったと思える。
 もっとも、未だに、安田弁護士の弁護活動を、自身の偏向的な社会正義から批判するだけの日本人は多い。
 正義の多面性・多様性を想定できない日本人が現存していることに、日本の民主主義の稚拙さを感じる。
 「弁護人の入れ知恵でこうなった」と決めつけるのであれば、それなりの根拠を示す必要がある。

根拠はない話だが、「入れ知恵がない」という根拠もないのが悲しい現実です。
しかし、この見解が、被害者感情論を優先するという不公平な部分が至った見解であろうという可能性は否定できない。
 被害者感情で支配された民意は、被告には残酷であることが正義なのであろう。

さて、江川氏の記事については、よくよく否定する場所が見当たらない。
 このブログよりも、江川氏のブログの方が圧倒的に優れているので、是非に参照してほしい。
しかし、この記事の最大の価値は、江川氏の文末のメディアと視聴者への警鐘だろう。
割愛せずに全文を引用する。
もう一つ、メディアのあり方も考える必要がある。
 橋下弁護士の問題発言があった読売テレビ「たかじん そこまで言って委員会」は、生放送ではない。橋下氏も、「ここはカットされるかもしれないけれど」と前置きして話をしているところをみると、実際の放送時間より相当長い時間をかけて収録しているはずだ(出演者の顔ぶれを見ても、収録時間は相当長いだろうなと想像できる)。
 橋下弁護士の”煽動”が公共の電波に乗って放送されたのは、この発言を選んで放送したテレビ局の判断がはたらいている。
 番組では、橋下弁護士以外の出演者もすべて弁護団を叩いており、違う角度からコメントをする者は1人もいなかった。弁護団の言い分がVTRで紹介されることもなかった。一方的な「行け行けドンドン」の雰囲気で、果たして現在進行形で審理が行われている事件ものを扱うやり方として、適切だったと言えるだろうか。
 この事件では、懲戒請求だけでなく、安田弁護士を名指しで脅迫する実弾入りの文書が新聞社は弁護士会に届いた。そのほか、法律事務所にも脅迫電話がひっきりなしにかかってきた、という。
 気に入らない言動に対して暴力で攻撃する事件が相次いでいる今の風潮を考えると、人々の感情をとらえるような話題に関しては特に、「これを放送したらどういう反応がおきるか」という想像力や物事を客観的に眺めるようなバランス感覚が求められる。
 特に、とかく刺激の強い発言を求めがちになるヴァラエティ番組で、刑事事件を話題にする時には、どこまでの表現が許されるのかなど、自主的な枠組み作りをする必要があるのではないか。
 特に、刑事事件に関しては、再来年には裁判員制度が導入され、一般国民が被告人を裁くようになることを考えなければならない。
 「あいつら許せん」という感情で裁判を行うわけにはいかないわけで、そのためにも、裁判員が予断を持ったり、「世間」が裁判員に危害を加えたりすることのないよう、冷静な判断を行える環境作りがメディアにも求められる。
 自主的な対応ができず、今のように感情を煽るような番組が垂れ流されている状況が続けば、様々な規制がかけられる事態も考えられる。そうなれば、事実を詳しく伝えたり、批判をしたりする報道の自由も危うくなってしまう。
 弁護団が裁判に訴えたのは橋下弁護士1人だが、NHKと民放で作っているBPO(放送倫理・番組向上機構)の「放送と人権等権利に関する委員会」や「放送倫理検証委員会」などで、今回の番組について、自発的な検証がなされるべきだろう。

 放送倫理としての中立性を損なっていることは言うまでもないだろう。
放送法
第1条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
1.放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
2.放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

 番組の内容が胸を張って、第一条を厳守していると言えるだろうか?

さて、今回は江川氏のブログを拾って冥王星の見解を述べたが、できれば、江川氏のブログを通読してほしい。

最後に橋下氏が弁護士であるために、冥王星の老婆心ながら自覚してほしい弁護士法の条文・弁護士の訓示を
第二条  弁護士は、常に、深い教養の保持と高い品性の陶やに努め、法令及び法律事務に精通しなければならない。

世論に負けず、被告人の側に立つこと

世論に負けず、被告人の側に立つこと
弁護士の使命というものです。弁護士は、検察官ではないのです。裁判官でもありません。
弁護士は、当該被告人の刑事手続きに対し、常に被告人の立場から、検証し、反駁し、
批判するものなのです。世論を敵にまわすことは、辛いものがあります。でもそれが必要
なときもあるのです。
人の首が出てきたら、どう思うか、それは弁護士とて同じです。
幼児殺害未遂など、とうてい許されるわけがありません。
しかし、客観的な証拠によって、一つ一つ検証されることがどうしても必要なことなのです。
犯罪の成否も、犯罪の内容も、証拠によって検証されなければ、有罪判決は許されない
のです。こうした裁判において、常識という名の「予断」と「偏見」に対し、対峙する役目
が弁護士なのです。

弁護士のひとりである私は、毎日のように、にがい経験を積み重ねながら、自己の非力と
戦いながら、自問自答しながら、厳しい現実に対峙しています。裁判において、人の間違
いの重大性を問いつつ、おのれの判断に対し、間違いや不十分である事への恐怖感を持
ち模索しています。
この様な経験によって得られた認識、すなわち人間の判断の脆弱さや不完全性、判断の
相対性に対する認識や、感情先行型の世論の行き過ぎや、人間の感情の不安定さにたい
する認識は、社会が弁護士に教えた英知の一つだと思います
今回の事件、及び記者会見は、弁護士の使命を考え、我々弁護士が襟を正すという意味
で、重要な意味を持っています

弁護士とは、被告人の立場に立って、刑事手続きを検証し、
批判し、法的手続きが正しく行われるように務める役割があります。刑事手続きにおいて、
弁護士に与えられた最も重要な職責でしょう。その職責を全うすることが、今強く求められ
ていることを痛感し、思いを新たにしています。

BPOの光市裁判報道に関する意見の記事として、別記事を設けたので追加的に参照してください
BPOリリース「光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見」




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