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ペットを飼う責任の重さとその範囲を考える
【2008/08/27 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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(2007年1月抜粋)
 私が納得できないこととして、動物を飼うエゴを考えてしまう。
 人類の発展と動物は密接な関係にあるが、今の人間と動物の関係は、昔のものとは違う。
 昔の動物と人間は相互互恵(相互依存)関係であり、見事な利害関係のある共存関係である。
しかし、現代の動物と人類の関係は、相互依存という色合いが少ない。
 愛玩動物として飼われるペットは生来の生態系から離れ、見世物扱いされ、運が悪いと捨てられる。
 昔の動物に人間の共存関係は現代ほど希薄ではないだろう。
 犬を事例にして考えれば、
狩猟採集時代の番犬は人類の安眠と安全を保障し、その代替として犬は人類の残飯を得ることができた。この背景には、個体維持できない狼が人類と新しい道として共存という進化を進んだわけであり、共存関係からの自然的な進化というべきだろう。
狩猟犬・番犬としての用途性で進化した犬は見事に人類との共存を糧に進化した動物だろう。
同じことは、牛、羊、山羊、猪(=豚)、鶏、アヒルなどにも言える。
 ”愛玩動物がダメという”のは狭量な価値観との批判が免れないが、
愛玩動物にしても、飼う側としての責任を感じるべきだろう。
 
 さて、飼い主の責任に関しての話に逸れたいのだが、
 
 ペットアレルギーの人にとっては、動物はつらいものがある。
 一方、アトピー、アレルギーという病気に関しては、様々な未知の部分が多く含まれており科学的検証の難しさが言われている。
 しかし、ペットが原因だと特定できるアレルギーが多々あるそうだ。
 そこで考えてしまうのが、「ペット感染によるアレルギーの医療保険の適用」である。
 ペットを飼わない側からすれば、ペットを飼うことによって発生した病気に医療保険が使われることに不満がある。
 愛玩としての動物は、生活において必要性のあるものではなく、むしろ贅沢だろう。
 ペットが食べる餌で飢餓で苦しむ人類の多くが救えてしまうことを考えると、むしろ、ペットに税金をかけるべきだと思う。
 その上、病気を持ちこんでしまうペットの存在と、その飼い主のアレルギーに保険が使われるのは、納得できないのである。
 私は愛玩動物としてペットを飼うことは罪悪だと思える。(以前、冥王星との対談があるので参照されたし)
 その愛玩動物は、その飼い主に飼われない人生である方が、幸福だった可能性が高いだろう。
 野垂れ死にしたかもしれないが、それがその動物の運命であり、それを受け入れるしかないだろう。
(動物の幸福を人類の価値観で論じている危険性があるが)
 飼われることも運命だろうが、動物の命を支配してしまう「ペットを飼う」という行為に対する意識は、もっと高くあるべきではないだろうか?

 「ペット税」までは言わないが、ペットが原因になる問題に関しては、飼い主の責任を明確化するべきだろう。
 そして、ペットが犯した罪は飼い主が全面的に背負うべきだろう。

 そこまでの責任感のない飼い主に、動物の命、人生を支配する権利はない
と思うのだが・・・・

 具体的に言わせてもらうと、「愛玩動物税」というものを提言しておきたい。
文化施設たる動物園や動物を糧にするしかない産業などの動物は例外として、愛玩である動物には税金を課す。
 税額は、その動物が消費する年間熱総量で算出する。
 
他にも、愛玩動物が媒体になったと思われる病気に対しては、医療保険の適用外とするなどの必要性があるだろう。
(アニマルセラピーなどの「やむえない事情」を考慮するべきことも多少あるが)
 「この食糧不足の時代に、ペットを飼うなど」とは言わないが・・・・・・・ペットを飼う権利に対する責任を負うべきだろう。

 飼い主にはつらいだろうが、飼われる動物が愛されるようになるためには、覚悟と責任のある飼い主である必要性があり、フルイにかけることも動物の幸福に繋がるのではないだろうか?



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「動物の権利」を想う
【2008/08/27 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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(2007年1月分抜粋)
 動物を飼うことが、人類の発展に大きく寄与したことはほぼ間違いない。
その共存していた人類と動物の関係の変化が弊害を発生させる問題である。

 具体的に、動物の権利(animal rights)という概念の発展から考える要素があるだろう。
「動物の権利」は人と等しく動物が幸福に生きる権利があると叫ばれるようになった。
簡単に概略を説明すれば
ピーター・シンガーが1975年に出版した「動物の解放」(ANIMAL LIBERATION)をきっかけに、世界中に広まる。
シンガーはその著書の中で動物は苦痛を感じる能力に応じて、人間と同等の配慮を受けるべき存在であり、種が異なる事を根拠に差別を容認するのは種差別(スピーシズム)にあたるとした。
さて、この考え方は哲学的な見地から様々な視点で論じられているので、いくつか抜粋する。
 ジャン=ジャック・ルソーは、『人間不平等起源論』(1754) の序文で
人間は「知性と自立した意思を欠いた存在」でこそないものが、出発点は動物である。
さらには動物は感覚を持つ存在であるため、「自然権を持つものに含まれるべきであり、人間は動物に対して責務を負っている」
従って「無益に虐待されることのない権利を有するものである」
 ルソーの動物の自然権の問題は、自然権が生来ものであることを前提にしている。
しかし、現実の権利は、コモンセンス・合意形成によって創造され実行力を持っている。
動物の多くが合意形成を行い、ムレ社会のルールを作れているわけではない。(作れる動物も多々いるのは別記する)
ジョン・オズワルド(John Oswald)は『The Cry of Nature or an Appeal to Mercy and Justice on Behalf of the Persecuted Animals』の中で
人間は生まれつき慈悲と思いやりの心を備えている。
もし自分が食べる動物が死ぬのを見なければならないとしたら、ヴェジタリアンになる人は今よりはるかに増えるだろう。
しかしながら分業が発達したために、近代の人間は生まれつきの思いやりの心を起こさせることなく肉を食べられるようになる一方で、残忍な行いに慣れていった。

この指摘には否定的になる。ト殺業を営む人がベジタリアンばかりならば
「思いやりからベジタリアンになる」と言えるだろうが、ベジタリアンは職種業種を選んでいるわけではない。そして、この「生まれながらの思いやり」というのも非常に疑問がつく。性善説的価値観を前提にした論説であることは言うまでもなく問題視されるだろう。

他にも多くの哲学者が動物の権利を規定しようと試みている。
多くの主張は確かに、説得力を伴うものだが、動物に対する科学的見地が十分にあるわけではないだろう。

動物の権利を否定するような指摘を行っているが、問題はその権利の射程だろう。
盲目な動物愛護団体が、生態系崩壊に繋がるような保護活動に走ってしまったような事例は多い。
人類含めて、地球環境は食物連鎖で成立している。人類は一面で食物連鎖から離れているが、雑食性の動物であっても食物連鎖の影響は必ず受けるのだから、留意する必要性があるだろう。
 いかにバランスよく動物と共存するべきか?という問題で動物の権利を考える必要性があるだろう。
 スポーツハンティングの是非論も問題提起されることがあるが
もし、そのハンティングで得た食物を摂取するならば、それは批判されるべきではないだろう。
動物は「無駄に他の動物を殺さない」という考えで娯楽のための殺傷行為は問題視されても仕方ないだろうが、それが食物連鎖的な意味合いを持つならば、全否定する必要性を感じない。
 結局は、動物の権利とは、盲目的に動物を愛すことではなく、自然界のバランスを含めて、公平に生物を愛する姿勢というべきだろう。
 クジラの保護活動でクジラだけ増えて、生態系が崩壊したり
 バスフッシュングがしたいために湖沼の生態系を破壊したり
結果的に他の種の生態系を崩壊させた動物愛護精神の反省は必要なのである。

 
さて、一方で矛盾している話をするが、動物の絶滅という問題は、本当に危惧するべきである一面だけではなく、自然淘汰の原則では「仕方ない」という表現が妥当な部分も多い。
 現在でも多くの動物が生きているが、地球誕生以来、多くの種類の動物が自然淘汰されてきた。
地学的知識のある人なら知っていることだが、カンブリア大爆発などを契機にして、種は爆発的に増え、現在の生態系に落ち着いてる。
 人類が地球を支配してから、多くの動物が絶滅したと言われるが、繁栄する種の影で絶命する動物が増えるのも当然の話である。
 過去隆盛した恐竜と呼ばれる動物の繁栄の陰で多くの動物が滅亡したはずである。
 その滅亡した動物の総数は今の科学では分からない。
もしかすると、恐竜の繁栄は人類の繁栄以上の種の絶滅の原因になったかもしれないのだ。
 そう考えると科学的検証のない動物愛護活動は感情論の産物というべきだろうか?
 そして、最終的には動物に対する差別愛になるのではないだろうか?
 私は、人類以外の動物は等しい価値だと思っている。そこ低俗、高度さなどの差別化を見いだせない。人類だけで特別扱いしているという批判を覚悟の上で、動物の権利を考えるべきではないだろうか?


五輪もスポーツも終わらない
【2008/08/25 】   ワレサ      トラックバック(0)   コメント(0)
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 冥王星さんとモダンタイムスさんの強い要請で転載することになりましたが、
この記事は、五輪だけではなくスポーツというテーマに対しての向き合い方について考えるために必要な比較論だと思っています。
 世間様を皮肉る方向性を含めて加筆したもので、以前の記事とは味付けが異なりますので、ご了承ください。

 「スペシャルオリンピックス」という知的障害者の競技大会があります。
 障害者スポーツでは、一般的に言われるオリンピック以外にパラリンピックがあります。
他にもデフリンピック(視覚障害)などあります。
障害者スポーツは環境的制約の問題が大きい部分もあり難しい問題が競技として付きまといます。
しかし、プロスポーツ競技やオリンピックの拝金主義、国家主義的側面から逸脱できる背景が強く
スポーツマンシップが一番分かるのが障害者スポーツのように思えます。
 スペシャルオリンピックスに関してはその精神性が非常に素晴らしい部分が多々ある。
「いつもどこかで活動している」ということから、Special Olympics と複数形

『いつもどこかで]というのは、”競技はいつも行われている恒常的なもの”ということで4年に一度だけ騒ぐオリンピックを皮肉る意味も、知的障害者スポーツの普及の意識もよく表れている。
Let me win. But if I cannot win, let me be brave in the attempt.

 翻訳するならば
「最善を尽くそう!しかし、勝てなくてもがんばろうとする勇気をください。」とでも訳することができる。
スポーツマンとしての在り方の見本だと思う。
 既存のオリンピックが世俗化して「見る側」にとってのイベントの色合いさえ強くなったことを鑑みれば尚更、障害者スポーツの精神性は輝くものを感じれる。
「参加することに意義がある」というオリンピック精神に基づき、成績の如何に関わらず、すべての競技者が賞賛され、表彰される

この実行の背景には、スペシャルオリンピックは「日常のスポーツトレーニングプログラムの成果の発表の機会」という捉え方があり競技である視座は薄い。
他にも評価すするべき部分を列記すると
競技とトレーニング両面を重要視している
地域毎のスペシャルオリンピックス活動を尊重している
健常者も競技に参加できる
記録、競技成績の到達度の評価がある
大会を支えるボランティア活動が、恒常的な障害者スポーツのボランティア関係者であること
ボランティア参加者に対する敬意を畏敬の念が伴っていること
スポーツを支える周囲の人への感謝も伴うこと

私はどうしても、スペシャルオリンピクスの精神性を知っているせいもあり、
 騒ぎになっているオリンピックが「騒がしいエンターテイメント」としか思えない。
 スポーツは娯楽性があるものだと思うが、スポーツができる喜びなどを全く考えないようなスポーツ選手を認めようとは思えない。芸能人であるとしか思わない。
 
 オリンピックという名称は、国際オリンピック委員会(IOC)の管理権限で、スペシャルオリンピックスもパラリンピックもデフリンピックもIOCの許諾がある。

 今、使われている「五輪」「オリンピック」という言葉は、健常者スポーツの祭典だけであるのか?
という疑問が付きまとう。
 スペシャルオリンピックスが指摘する
「スポーツの恒常性」・「競技ではなくトレーニングとしてのスポーツ」・「スポーツできる喜びへの感謝」「順位ではなく、参加者すべてが評価されること」
これらは五輪精神に相応しくないのか?
私は、五輪精神に相応しいと思う。そして、IOCもオリンピックという名称の使用を許したのである。

パラリンピックも同じである。傷痍軍人のトレーニングとして競技会が発生し、障害者スポーツの祭典として、1964年からオリンピックと同じ周期で行われているイベントである。
 北京でも開催されるし、88年のソウル以降はすべてオリンピックとセットで開催されている。
 
 スポーツ観戦する側のお祭りの五輪と、それに同乗する必要性がある選手達
冷静に考えれば、現代のプロスポーツ選手は結果を求められ、その結果はあくまでも、記録ではなくスポーツ消費者側の評価に過ぎない。
 消費者の評価がなければ、スポンサーも付かないアマチュアスポーツに終わる。
 アマチュアスポーツ選手は過酷な競技環境を強いられ、見世物としてのスポーツではないから一向に評価されないだろう。
 競技によっては、「道楽」とも言われかねない可能性さえある。
 
 見る側が主体的になったスポーツが悪いというわけではない。
見る側が結果論だけでスポーツを論じている姿勢が理解できないのだ。
「次のオリンピック」まで4年もある。その間に世界選手権、オープン選手権大会など別個の大会があるだろう。
 見る側が次のオリンッピックまでその競技を見ないだろうが、競技者は4年後など遠い先の話でもあろう。
 五輪報道の在り方と視聴者の刹那的な「厭世感」「お祭り感」が視聴者として妥当性があるのだろうか?
 競技結果が悪いことは、選手自身の負担で、もっとも辛い思いをしている人を鞭打つように報道することにとても、スポーツを見る人間の視点の汚さを感じる。
 
 「五輪閉幕」という紙面が踊る今日の新聞を見て、
思う。そして紙面や放送では
オリンピックは終わらない、スポーツは終わりません!
なによりも、パラリンピックというオリンピックが残っている!

続いて、パラリンピックが開催されます。オリンピック選手の皆さんお疲れ様でした。
次はパラリンピックの選手を応援しましょう。

という展開がされるべきではないだろうか?



海洋航行不法行為防止条約と威力業務妨害
【2008/08/20 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(1)
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記事内のユーザータグ    国際政治       国内法   

米環境保護団体「シー・シェパード(SS)」による日本の調査捕鯨船への妨害問題で、警視庁公安部は18日、調査捕鯨船に発煙筒を投げ込んだりロープをからませるなどして航行を妨げたとして、威力業務妨害容疑で、SS活動家の男3人の逮捕状を請求した。公海上でSSによって繰り返されてきた日本の調査捕鯨船への妨害行為が立件されるのは初めて。
公安部は刑法4条の「条約による国外犯」規定を適用
「海洋航行不法行為防止条約」
に違反した国外犯として初めて摘発する。
 逮捕状を請求したのは、41歳と30歳の米国人、28歳の英国人。公安部は国際刑事警察機構(ICPO)を通じて3人を国際手配する方針。
 調べでは、30歳の米国人と英国人は昨年2月12日、南極海で目視専門船「海幸丸」に対し、ゴムボートからロープを海中に投下し、海幸丸のスクリューにからませて航行を妨害した疑い。41歳の米国人は発煙筒18個を投げ込み、うち9個を発煙させて業務を妨害した疑い。公安部はほかに3人の活動家が妨害に関与したとみて特定を急ぐ。
 SSは3日前の9日にも調査母船「日新丸」に酪酸入りの瓶を投げつけ、乗組員2人の顔にやけどを負わせるなどしており、公安部は捜査を進める。酪酸は悪臭を放ち、目に入れば失明の危険もある。
 公安部は乗組員が撮影した妨害行為のビデオ映像を分析する一方、関係国に捜査共助を要請し、実行犯の特定を急いでいた。
 調査捕鯨船に乗船していた海上保安官ら3人がけがをした今年3月の妨害行為については、海上保安庁が威力業務妨害と傷害容疑で捜査している。

(冥王星著)
 立件が遅すぎるという批判が妥当かもしれない。
 日本の当局(公安)としては、国際法的課題と刑法上の都合でどこまでICPOなどの国際捜査機関との連携が図れるのか?という課題について憂慮していたと考えられる。
 捕鯨問題では稚拙な感情論が横行し、ある程度の科学的検証さえ認めない硬直的な意見が万延している。
 国際政治の民主主義原理からすれば、マジョリティ見解が優先されるのであり、仕方ないことだろう。
 逆に、科学的見地を貫く姿勢を国際社会が貫けない問題があるのだから、仕方ない。
(劣化ウランなどの問題は科学的見地ではなく感情論で政治展開しているのだから)
 さて、実は今回の課題は、批准したばかりの国際法である「海洋航行不法行為防止条約」の解釈問題が大きく論題になる。
 まずは、刑法4条から
第4条の2 第2条から前条までに規定するもののほか、この法律は、日本国外において、第2編の罪であって条約により日本国外において犯したときであっても罰すべきものとされているものを犯したすべての者に適用する。

そして、該当する国際法条文が
第三条
1 不法かつ故意に行う次の行為は、犯罪とする。
 (a)暴力、暴力による脅迫その他の威嚇手段を用いて船舶を奪取し又は管理する行為
 (b)船舶内の人に対する暴力行為(当該船舶の安全な航行を損なうおそれがあるものに限る。)
 (c)船舶を破壊し、又は船舶若しくはその積荷に対し当該船舶の安全な航行を損なうおそれがある損害を与える行為
 (d)手段のいかんを問わず、船舶に、当該船舶を破壊するような装置若しくは物質若しくは当該船舶若しくはその積荷にその安全な航行を損ない若しくは損なうおそれがある損害を与えるような装置若しくは物質を置き、又はそのような装置若しくは物質が置かれるようにする行為
 (e)海洋航行に関する施設を破壊し若しくは著しく損傷し、又はその運用を著しく妨害する行為(船舶の安全な航行を損なうおそれがあるものに限る。)

 (f)虚偽と知っている情報を通報し、それにより船舶の安全な航行を損なう行為
 (g)(a)から(f)までに定める犯罪及びその未遂に関連して人に傷害を与え又は人を殺害する行為
2 次の行為も、犯罪とする。
 (a)1に定める犯罪の未遂
 (b)1に定める犯罪の教唆その他の当該犯罪に加担する行為

 (c)1の(b)、(c)及び(e)に定める犯罪を行うとの脅迫(船舶の安全な航行を損なうおそれがあるものに限る。)。何らかの行為を行うこと又は行わないことを自然人又は法人に強要する目的で行われることを要件とするか否かについては、国内法の定めるところによる。
 赤線が今回問われる犯罪である。
 これは蛇足だが、
公海上であろうと、船舶内での不法行為は当事国の国内法が流用できる。

 つまり、国内法の威力業務妨害での立件も視野にあっただろう。
 しかし、今回、国際法的な問題で立件したことには、留意があるのだろう。
 正確にいえば、威力業務妨害容疑という国内法規定の立件ではない
つまり、多くのメディアが威力業務妨害罪と報道していることは妥当性はない。

実は、公海上の主権の射程の問題は、深刻な影を残す。
 今回、国内法立件を見送ることになったのは、公海上主権の解釈の問題にある。
前述した「公海上であろうと、船舶内での不法行為は当事国の国内法が流用できる。」という解釈では説明できない行為を日本は過去してしまっているのである。
 不審船沈没事件を覚えている人はいるだろうか?
 事件の不審船は公海上を航行していた。(公海上であるか?という問題も不明瞭になっているのも問題なのだが)
公海上の主権に関しては「国連海洋法」の管轄になるのだが、同法では
第八十七条 公海の自由
1 公海は、沿岸国であるか内陸国であるかを問わず、すべての国に開放される。公海の自由は、この条約及び国際法の他の規則に定める条件に従って行使される。この公海の自由には、沿岸国及び内陸国のいずれについても、特に次のものが含まれる。

第八十九条 公海に対する主権についての主張の無効
いかなる国も、公海のいずれかの部分をその主権の下に置くことを有効に主張することができない。

第九十条 航行の権利
いずれの国も、沿岸国であるか内陸国であるかを問わず、自国を旗国とする船舶を公海において航行させる権利を有する。
とあり、
航行船舶には(奴隷取引や海賊行為、麻薬の不正取引に従事していると認められた場合以外)、
その船が属する国家のほか管轄権はおよばない。
つまり、日本の捜査権も主権も及ばないということである。
あくまでも、不審船という時点で”不審船”は、平穏な航行を享受する国際法上の権利を有していた。
(補足するが、かの不審船が軍艦などの海洋法上の「船舶」に該当しないものならば話は別)

この時に、「公海上の主権を日本は侵害してしまった」=「公海上の船舶の主権を認めていない」ことになる。
 だから、調査捕鯨船の主権として国内法の威力業務妨害の適用が難しいということなのである。

 しかし、なぜメディアは「威力業務妨害」の立件を言うのか?サッパリ不明である。

 今回の立件はあくまでも、「海洋航行不法行為防止条約」違反であることを精査して報道してほしい。
特に、威力業務妨害に関しては法解釈の大きな課題がある。
簡単に説明すると、威力業務妨害罪は、二つの立場がある。
 一般的には、危険犯罪、侵害犯罪というもので、
危険犯罪
・法益の侵害が具体的に発生せずとも、法益侵害のおそれがあれば実現する犯罪
侵害犯
・法益侵害が必要とされる犯罪
とあり、日本は前者である。諸外国の威力業務妨害は後者も残っている。
 今回は、国内法で争わないから課題にならないが、威力業務妨害の構成要件から突き詰めて報道してほしいものである。

ワレサ著
 捕鯨問題は環境エゴイズムです。
 温暖化問題と同じく環境問題は国境のない問題として、国権を超越して議論されていますが
 純粋に法的には、国際法による例外を除いては、グローバルな問題であっても国家主権を侵害できません。
 私は捕鯨文化を理解する必要性もないので捕鯨の必要性を理解できませんが、目くじらを立てるような問題とは到底思えません。
 感情論部分の問題は別にして、真に環境問題を考えるならば、適正な生態系の解明のために調査捕鯨を否定するべきではないでしょう。
 「調査も許さない」で法的に禁止されている条約でもないのですから、調査捕鯨が違法ではないでしょう。
 今回のは「テロ」という取り扱いがいいでしょう。
 国際テロに対しては、世界的に抑止取締りの必要性があるはずです。
 しかし、IWCはこの問題に関しては、アクションはありません。
 このIWCの姿勢は、反捕鯨活動を勇気付け兼ねないことであり、憂慮するべき問題です。

 以前、アシSさんが、GP(グリーンピース)の偽装内部告発事件を起こした際に指摘していたことですが
 違法行為を立証するために、違法行為を行う権利は一般人にはありません。
 厳密には、諜報活動従事者は違法行為が立証されれば問われるのであり、違法行為の立証のための違法行為は免罪されることはない、というべきでしょう。

 しかし、私が日本を尊敬するのが、
日本文化として重要視している捕鯨文化を認めないような野蛮な国際機関IWCを尊重する姿勢です。
 私が現場の人間ならば、国論喚起してIWC脱退という方向性を主導するくらいの話です。
 
 冥王星さんも、
IWC脱退、新国際捕鯨文化機関の設立という選択肢を推薦していましたが、それくらいの盛り上がりがないことは不思議な話です。

 



 


 

スポーツの本質論と観客
【2008/08/19 】   ?      トラックバック(0)   コメント(1)
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 スポーツの定義はできない。
 しかし、スポーツの本質は各人の中に介在するだろう。
 スポーツの本質を見つめる機会として五輪は最適な環境であるように思える。

ショースポーツ(観戦を前提にするスポーツ)が、競技の性格を歪めるような危機感があって然るべきではないだろうか?
 特に、そのスポーツの変容を見せつけたのが、開催中の北京五輪である。

 競技のルールの変更を突然言い渡された野球もそうだが、
レスリング、柔道、水泳など様々な競技で、ルールや競技環境の変容で変化を見せている。
 特にそれらは、観衆あってのショースポーツの前提で競技されるルールになっている。
 ルールの変容が競技の変化と選手の変化を誘発するのは当然ではある。
 しかし、そこに競技、スポーツの本質があるのか?という問題は突きつけられて然るべきだろう。

 柔道は、今後、「効果」がなくなるようだが、ポイント争いの競技ではなく「一本」を取るまで可能な限り延長を行うのが通例だった。
 レスリングにしてもそうで、「フォール」をもってして勝利が確立するはずである。

どこか、ルールの変化、競技やスポーツの方向性が「見せるスポーツ」という前提条件を最優先している気がしてならない

この問題の是非論はあるだろうが、競技者にとってはその変化に対する対応を求められるわけである。
これまで蓄積してきた練習などが水泡に帰すようなルール改定などは避けるべきではないだろうか?

そもそも、スポーツは観衆なしで成立するものである。その観衆を重んじる精神が競技、スポーツに必要になったのは、なぜか?

簡単にいえば、金ではないだろうか?
競技の普及のために、ルール改定を行う場合もあるが、金目当ての競技団体がショースポーツを宣伝し、拝金主義に塗れさせた。
その結果論が、ドーピング選手を蔓延らせる原因というべきだろう。
 拝金主義の批判になっているが、ショースポーツはスポーツと規定するにしても、明確に分離するべきではないだろうか?
 分離というのは、見る側が分離できるようになる必要があるというだけで、競技者のプロ、アマは別問題と考える。
 
 さて、一方、拝金主義とほとんど無縁の世界がこれから、北京で広がる。
 パラリンピックである。
 義足技師などの活躍で今日のパラリンピックがあることを考えると感慨深いものがあるが、パラリンピックの競技者の多くはプロ選手ではない。
 彼らは周囲の協力を元にして競技している自覚が強くとても、アマチュアリズム的な側面が強い。
 ショースポーツではなく、純粋に障害者スポーツに取り組む彼らの方にスポーツ選手の精神性を感じるのは私だけだろうか?
 
 パラリンピックの成功まで北京を見逃してはいけない。
 それは、五輪開催地としての適性を見る上で、障害者に対するケアまで考えた競技環境の整備も重要な候補地の要件であるからだ。

 ロンドン五輪は競技環境は素晴らしい。
 障害者スポーツの環境整備では豪州の次に優れた環境である・・・・・・

 ロンドンの次の五輪開催候補地の「TOKIO」はどうだろうか?
 パラリリックの備えた環境整備という課題を論じていない世論と東京都の現状を考えると
 「北京より酷い」と意見しておきたい。

 そして、北京が開催地の相応しくないという問題よりも、自ら、五輪憲章を守れない各国の選手と関係者の未熟なスポーツマンシップは、観衆の存在のせいと危惧しておきたい。

<冥王星著>
 競技は五輪だけではない。世界選手権・オープン選手権とある。
 「真の世界一は五輪ではない」という罠を冷静に見つめるべきような部分も理解してほしい。

 「北京五輪の次はロンドン五輪」というのは、観衆側の視点でしかない。
 そもそも、その競技を次の五輪まで見ないというのだろうか?
 よっぽど五輪が重要なのかもしれないが、競技者生命は4年周期ではない。
 4年周期で語るべきではない。
 
 そして、五輪種目ではないスポーツを尊重する姿勢を忘れないでほしい。
 
 

応報・教育刑の狭間と死刑制度
【2008/08/16 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(3)
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「死ぬ」ことの恐怖という刑罰は普遍的ではないことがある。
自分の結論からいえば、死刑原則禁止の例外措置を設けるスタンスである。

 <応報的なスタンスにおいての「死刑」を考える>
概ね死刑容認論における主張の核は、
①死刑による抑止効果
②被害者の慰撫
の問題を提示することが多いわけですが、その当たりの評価を再考察してみたいと思う。
”①死刑に抑止効果について”は死刑によって、”反省、後悔の念、良心の呵責に苛まれることが終止すること”をどう評価か、という問題がある。
「本当は生きてる方が辛く応報的な状況もあるのでないでしょうか?」
そういう部分で応報刑という概念における死刑は実は普遍的に機能性があるとは言い切れません。
「死んだら終わり」というのは、むしろ「死の恐怖」のない者には抑止力にはなりえないことも想定されます。
オウム真理教やイスラムテロなどの過激な事例を考えると、彼らに「死の恐怖」は希薄であり、死刑が抑止になるというに及ばない典型例である。
下手をすれば、組織内で”死刑にされた受刑者”が殉死英雄視されることも想定できる。
歴史において、死を受け入れた人を英雄視するようなことは案外多い。
死刑によって事犯が永遠に闇に葬りさられる事件もあり、真実を知りたいとする被害者や国民の意向を消し去ることも問題である。
 「死にたいから死罪に相当する罪を犯す」という”死罪になるために罪を犯す”という事例を見てしまうと死刑を肯定する難しさがあるだろう。

”②被害者の慰撫”に関してはもっと皮肉なことに、殺人罪の被害者家族が死刑廃止を唱える構造になっている。
一時的な感情の起伏が被害者とその周囲が冷静な判断を下せない背景もあるし、加害者を理解するための措置をもって応報刑を考えるべきだと思うのだが、その点では応報は懲罰を課せばいいという短慮だと思える。
例えば、より応報的に受刑者に現実社会で犯罪者としての差別的取り扱いを望む人もいるだろうし、刑務所という人権の最低保障のある空間は逆に贅沢だと思う被害者もいるだろう。

なにをもって応報とするか、ある程度は被害者の慰撫を目的とするならば、被害者の要求に合致させたものの方がいいこともいえる。(復讐的な意味での刑罰を認めるわけではないが、慰撫を主張する人に対しての掣肘の意味であるべき応報の姿というものを固定化せずに提示したまでのことである)
 上記のような側面を鑑みると応報刑概念において死刑を積極的に容認することに違和感がある。
つまり応報形としての死刑論は、本当に応報と解することができない可能性を想定する議論が必要だと思うのである。

 教育刑的なスタンスにおいての「死刑」を考える
自分は教育刑論者なのだが、死刑を原則反対するにしても例外は設けるべきだと思う。
 死に近い受刑者に教育的指導を行うことに意味があるとは言い切れないし、
矯正プログラムを適用する必要がない以上に、反省した受刑者で死刑を自ら望む者などは、被害者も死刑を希望し、事犯の事実関係が明確化しており、一定の期間が経過してるケースでは、受刑者の自決権と社会的要求に即応する形態で「死刑」を例外的に認めるべきだと思う。
 つまり、犯罪者と被害者の同意での死刑を死刑廃止の原則の例外として想定するべきであるということである。
 これは、「死ぬ自由、権利」の発展的な容認であり、擬似的死刑の形状である。

現実、教育的指導によって更正した老齢受刑者が社会に戻れることは少なく孤独死などの形態になることがまま存在することなどは悲惨な社会の現実であるようだ。
 その受刑者が自らの意志で「死刑」を望むならば容認するべきだと思う。(同時にそれを撤回する権利も認めるべきである)
 教育刑的な指導によって更正したとして、受刑者自身がそれで不足と思うことがありえるケースもある。
 その場合、被害者側の求刑を受刑者が受け入れるならば、それを適用してもいいとまで思う。

上記のような相互同意によって、刑罰を決めることは、法概念的には原則論である罪定法廷主義を否定するようなものだが、その効用は相互に計り知れないものではないだろうか?

 法が合意形成で形成される一方でそれはとても大雑把な掌握でしかないわけで、個別案件において合意形成が可能ならばそれを認めるシステムでもいいと思う。もしくは、その大雑把な法の罪定をボトムとした上での合意形成であってもいい。

死刑論争は多くの議論がなされている。
しかし、何が応報で、何が教育なのか・・というあるべき主題が放置されているものが多い。
今回はその回答はできないわけだが、このテーマは当事者の価値観、信念によって可変的であり、固定化するものではないと思う。



「教育バウチャー」に思う
【2008/08/15 】   管理者一堂      トラックバック(0)   コメント(0)
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(冥王星著)
教育者として自分を振り返って、総裁選で議題になった教育バウチャーについて、また言いたい放題します

 バウチャー(voucher)とは、”利用券”や”引換券”を意味する英語で個人を対象とする使途制限のある社会福祉補助金の一種である。
ミルトン・フリードマン(個人的には嫌い)がレーガノミクス時代に生み出したと言える市場原理・規制緩和至上主義の自由主義のシステムという評価がある。
規制緩和の流れにおいて、立案されたバウチャー制度は自由さが売りのシステムである。
 制度的には、多少の差異があるが私学の概念のある国家では、政府が保護者に対して私立学校の授業料に充当できる一定額のバウチャーを支給することにより、私立学校選択を支援するとともに、公立学校と私立学校との間に競争原理を働かせ、公立学校改善を促そうとする制度であり、生徒を奪われたくない公立学校は自主的に教育環境を整えざるを得ないことになるという公立学校への綱紀粛正の効果を視野にいれたシステムとして期待された。
市場原理主義的な発想で競争原理を教育に持ち込むことで活性化するというのは、あながち間違いとは言えないと思う。

法的なハードルとして、政教分離の問題がある。
例えば、特定宗教系の学校へのバウチャーが投下されることは間接的に政教分離に抵触する。
同時に、私立学校にも公的財源を与えるということは、公立学校へ向けられるべき財源の希薄化を招くことになり、公立学校生徒が私立学校へ転出しても、公立学校の運営経費はそれに比例して減少しないので、公立学校に取り残された子どもの教育環境を悪化させることになるし、バウチャー制度創設・運営自体に行政経費も計上することにもなる。
導入実績にしても、バウチャー制度導入により、生徒の出席率と両親の満足度の向上は実績はあるにしても、バウチャー制度が生徒の学力到達度を改善するためのプログラムとして、決定的な決め手になる証拠はまだ示されていない。
総裁候補の谷垣氏も言及した学校の教育水準の二極化の問題も当然想定される。
基本的に「適正に応じて量的等しく」教育を受けさせるためにはすべての学校について均質レベルでの教育環境整備が求められる。
行政としては、どの学校に進んでも十分に行き届いた教育を受けられるように整備していく義務が国家の教育としては介在するはずである。
ボトムからアベレージ、トップまで踏まえた学力の向上こそ公教育であるはずではないだろうか?
競争原理を私学だけで評価すると、多くの地域の私学で学力的二極化を生んでいると思われる。
自分の地元の高校などは、明らかに私学格差が大学進学率などに如実に現れている。
 教育の効果は即効性があるものばかりではなく、遅効性のあるものがむしろ多いと思う。
人生経験の希薄な自分に説得力はないにしても、学校で学ぶことは悪いことも含めて反面教師で学びえるし、当時嫌いだった教師の言葉を今になって意味を見出せるなどのことは誰しもあると思う。
非常の自分勝手な教育評価にはなるが、
バウチャーの評価は、生徒自身、保護者に迎合することで確保できる。
危険なことに、教育的関心の低い保護者などはバウチャーの使用を子供に依存し、子供は自分に迎合する教員を選びかねないとも思える。
 教員の威厳などを指摘する世代ではないが、
いい意味でも悪い意味でも学校、教師は畏怖の対象であることに支障はないし、近年の子供の学校離れから、迎合的教員が多く見受けられることも考えると、そもそも「教育評価」の難しさを感じざるをえない。
 楽しい学校もいい、しかし、学校とは社会を垣間見る機会でもある。
厳しさの中に学ぶものがあるという思考はマゾ的なのかもしれないが、楽しい勉学は誰でもできる。苦しさに耐えることを学ぶ必要性はバウチャー制度は排斥する可能性を危惧してしまう。

ただ、不登校生徒などに自由選択の余地を残すシステムはバウチャーの利点であり、評価は可能ではあるし、公立学校への刺激の意味はある。
補足するが、クラーク国際高校が、生徒比較的迎合的な学校であります。その評判に関してはコメントはしませんが、良質とはとても言えないことだけは指摘しておきます。

(モダンタイムス著)
教育バウチャー問題は、安価な政府理論と、教育の自由競争原理の採用で考えられたものである。
しかし、私学を別にして諸外国では競争原理以外の側面の評価が重要視されている。
結果として発現する時間的な問題が山積する教育を一時的な教育評価で論じられることは、近視眼的という批判は免れない。
 



「国旗国歌法」に思う
【2008/08/15 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(1)
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 先だって述べておくが、
自分は日本の国旗を「日の丸」、国歌を「君が代」とすることに否定的でも肯定的でもない。
象徴的な存在とされるものに自分が大して感性を刺激することが無い部分では関心を抱けないし、かといって、それらが「皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱」と思えたことは一度もない(日章旗は別にしても)

 今回は、「国旗国歌法」をまず取上げ、その上で速報だが、「東京地裁」の国旗国歌強制は違法 東京地裁、賠償命令も(河北新聞より)(読売記事)(毎日記事)
の司法判断に関して、私見を述べたいと思います。

 国旗国歌法は1999年に成立した。成立経緯を立法で詳しく調査すると以下のようである。( )内は投票数比率
 参議院:投票総数237、賛成166、反対71(70;30)
 衆議院:投票総数489、賛成403、反対86(82:18)
法案の内容は簡略化して言えば、国歌を「君が代」、国旗を「日章旗」とすることのみを指摘している。

第一条 (国旗)
1:国旗は、日章旗とする。
2:日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
第二条(国歌)
1:国歌は、君が代とする。
2:君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。


 成立過程において紛糾するような法でもないと思われる。
さて、国旗、国歌とはそもそも何なのか?という問題がある。
実は、法的には機能性は特段には存在しないのである。国際法的には国旗は海洋法に関する国際連合条約の94条において、船舶の旗国に法的な意味がある。これだけである。(あくまでも法的なものである)
国歌に関しては国際法的にはなんらかの制約が存在しているわけでもないし、この94条においても、国旗ではなく、国章であってもいいわけである。
しかし、国旗、国歌がある種の国民統合のシンボルと言われるのは、国家の歴史や慣習などによるものだと思われる。
国歌と取り扱われいるものが3つある国もある。

 平成11年6月29日、衆議院本会議での質疑での西村氏の言説を少し吟味したい

世界の国々は、国の独立を示す象徴として国旗・国歌を持っており


国家の独立を示す機能性が国旗、国家にある、という。
これに関しては大きな疑問がある。国旗、国歌がない国家がないという主張があるが、
確かに国旗、国歌がない国家は存在しない。
独立に至れない地域や都市国家などは独自に国旗国歌を設けている。
しかし、これが独立を明示するというならば、独自に国旗・国歌を設けた地域(バスク地方、台湾、チベットetc)などは例外である。
同時に、大英帝国の支配下の元、独立を帝国主義の支配下で独立を達成した傀儡国家やその亜流の国家は独立国として認められるほど、国家の体裁があると思えない。
満州国に国旗があったとして独立の象徴ではない。国旗、国歌が独立を示すというには、例外が多すぎる。
各国は、互いの国旗・国歌を尊重し合い、敬意を払っております。これは、近代国家における常識であります。

国旗、国歌を尊重する慣習がないとは言わない。
しかし、特定の国家への侮蔑、非国家主義などは非常識というほどの事態であるのだろうか?
反米、反共産主義などを象徴する意味で国旗を侮辱する行為は今の世界はまま見られる。
アメリカを槍玉にあげるのは不公平かもしれないが、
「イラク戦争当初においてフセインの銅像に星条旗を掲げる」行為が
、湾岸戦争やイラク戦争では国際社会の一員としてイラクの制裁するにも関わらず、自国の国旗を掲揚するなどの行為は、看過されている。
このような事象をみて、常識というほどの説得力があるとは思えない。もちろん、近隣アジアだけの問題ではなく、ムスリムでも欧米でもそのような行為はまま見ることを鑑みてほしい。
日の丸・君が代に反対する人は、日の丸はかつてアジア近隣諸国への侵略を進めた大日本帝国の象徴であり、君が代は天皇主権の賛歌である、いずれも平和主義と国民主権主義を基本原理とする現行憲法に違反すると言います。しかし、戦争は時代背景と政治的理由によるものであり、我が国の国旗が日の丸だから、国歌が君が代だから戦争になったわけではございません。国歌・国旗に罪はありません。

過去の政体の象徴というのは、現代の国歌の評価と同じくして、可能だと思う。日本国を象徴する存在として、日章旗が存在したことは否定できないことだろう。
しかし、戦争は時代背景と政治的理由によるものであるならば、国旗を政治的に奨励した事実関係は時代背景として評価されないといえるわけではない。
同時に政治的にも日章旗はしばしば演出でも使われていることを鑑みれば、無関係といえない。国旗、国歌に罪は存在しないというのは、当たり前であって、器物が罪を犯すはずもないわけで、言説としては不適切であろう。
しかし、国旗、国歌によって戦争が起きたわけではない、ということは事実である。
かの答弁だけを評価するのは、不足があると思えるが、このように、国旗国歌を美化する理論は空疎と言えるものが多い。

 ただ、国旗、国歌は有形物であるし、そのものは(明白に)違法性のある存在ではないわけで、器物としての国旗は財産として尊重されるべきであることも言うまでもない。
ちなみに、国旗を尊重することは刑法でも指摘されている。

第九十二条 (外国国章損壊等) 外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。
前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない。


条文を見てほしいのだが、外国の国旗、国章の尊重は明確に言及されているにも関わらず、日本国の国旗に関しては何ら指摘がないのが現状である。
だからといって、日本国の国旗国歌は尊重しないでもいいわけではないが、
可罰ではないことは、法的には言える。
この問題を自分は、日本国旗にも適用するべきだと思うわけだが、その機運がない。
それは、日本国の国旗を傷つける行為は明確な違法性を法的には見出せないということになるのかもしれない。(違法ではないにしても、傷つけることが器物として許されるわけではないとは認識する。)
法治的には、日本国の国旗はこの程度であるのが事実である。

日本だけではなく、世界には、国家を否定的に捉えその枠組みを自由を束縛する忌諱する存在とする思想もあるし、その思想の自由は違法がない限りは許されるものである。
その彼らの思想の自由も国旗と同じく尊重されるべきである。
何事も法で定義つけることが正しいわけではないが、
本当に国旗国歌を守るためならば、あえて法で守るべきではないだろうか?
それが法ではできない現状を知った上での、自分達の思想の押し付けであるならば、それは相手の自由を否定することになる。
 相互に思想信条を尊重することが自由の担保であるのだが、自己の常識を固定的に捉え、相手の価値観の理解に至れない、という不自由な世界になるのは、自由の退化だと思えて仕方ない。

チベット問題は続いている
【2008/08/15 】   モダンタイムス      トラックバック(0)   コメント(0)
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モダンタイムスです。
冥王星さんにお願いして、15日にUPされるように記事を作成しました。
今回は、チベット活動家のある人のお話を交えて、チベット問題に向き合うべき姿勢を問い直したいと思います。


知り合いのチベット自由解放運動の活動家が中国当局に拘束された。
4年前、チベット解放に関するセミナーで私と冥王星さんの討論相手がその拘束された活動家である。

古くからチベット問題は日本では注目されていました。
特に、嫌中国派と思わしき方々は盛んに中国批判を繰り返してきましたが
それについて、その人は酷く落胆した言葉を吐いていました。

モダンさん・冥王星さんのお二人と私では、チベット問題に関しては大きな見解の違いがあります。
それでも、二人は私達の気持ちをよく理解してくれている。理解しようとしている。

残念なことに、私はチベット解放活動を通じて痛感しました。
チベットに関する問題で海外の活動家の多くは、私達の気持ちをまったく理解していないことが分かりました。
彼らにあるのは、まず「中国が問題」という発想から来るチベット擁護の論理です。
逆に対論する側の方が、よっぽどチベットの現状への理解が深いことが多いです。

その理由は、関わってきた期間・知識の問題もあるかもしれないですが、
結局、我々に向き合っているのは、お二人のような人だけと思います。
私達とスタンスの違う方は、もっとも我々を理解しようとしていることは皮肉なことです。

私以上に過激な活動家批判をしていた冥王星さんを彼女はこう評していた
彼は、チベット人個人の権利について具体的にどうすることがBESTなのか?という問題を常、長期的・具体的に考えている。
ただ『チベットに自由を』と叫んでいる活動家よりも、将来のチベット人のためを思っていることが分かるから、嫌えないんです。
彼は、『チベット人民の自由』の前に、チベット人がチベット人であるためのアイデンティティの問題まで考えています。
意見の違いはあれでも、表面だけでチベットの自由を論じている人よりも、彼はよっぽど知識・覚悟・責任感をもっていると思います。
例えば、彼が指摘したチベット人とチベット仏教の関係、チベット仏教とチベット諸部族の問題。
一部の活動家は、冥王星さんやチベットの中国分離への危険性を論じている人の反対論に対して、対抗できないのは事実だと思います。
活動家の置かれた立場は、まず「チベットの中国分離」が目的であり、「チベット人の幸福」というのは目的ではない状態になっているように思えてなりません。
それでも、私は「チベットの自由」からチベットはチベット人になれると思うから、活動を辞められません。

拘束されてから彼女のメールを見て思い出すことが、彼女の活動家として理性である。
彼女は、最後まで冥王星さんと同じくして、聖火ランナーの妨害活動を批判し続けたし
デモに関しても、大使館、国会前などの主張先として妥当な対象を選抜してデモ行動していた。

冥王星さんが彼女に、
”大使館ではなく五輪大会に対する恫喝行為に走った活動”について詰め寄ると彼女は素直に非を認めた。
(彼女がトーチリレー妨害の活動家を制止する側に廻ったことは後で知ったことであるが)
同時に、彼女は長野でのトーチリレー妨害活動をテロと同質とも認めたことは彼女なりの理性なのだと思う。

おそらくであるが、彼女は冥王星さんをもっとも評価していたかもしれない。
それでも彼女が活動を止められなかったのは、何らかの情念なのだと思う。

一番直近のメールには
リンピック開催前はあれだけチベット問題を取り上げた各国メディアも、オリンピック開催と同時にチベット問題を取り上げることはしなくなりました。
仲間内でも期待していた日本の世論も活動家もまったく姿を見れない。
結局は、他国の国民にとっては、チベット問題の騒動はお祭りに過ぎなかったのでしょうか?

二人が指摘した”引き潮”のようにチベット問題は忘れられる、という皮肉が現実化している現状を
放置したくありません。


このメールが送信されて7日後、彼女は中国当局に拘束されました。


冥王星加筆

 彼女との面識は大学時代まで遡る。
 歴史マニアの自分にとってチベットという地域はとても魅力的な未開の地である一方で、
もっとも、歴史理解の進んでいない地域という意味での興味があった。(東南アジア地域などの歴史が大好きでもあるw)
残念ながらチベット自治区に行く機会はなかったが、問題になっているウイグル自治区には行った事がある。(チワン族自治区も)
 浅からぬ縁だったが、彼女にはかなり酷いことを言ったことを記憶している。
自分はその発言を後悔していないし、それに反論できないことを彼女は認めたことに、お互いの進展があった。

言うまでもないが、冥王星個人は「チベットは中国の一部」としてしか論じれない。それについては、彼女も最終的には
「チベットは独立国家である」という持論を棄却することになったので、こちらとしては満足している。
そして、彼女はチベット解放活動家でも数少ない「ダライ・ラマの政治主権を認めない派閥」である。
これについては、様々な部分で彼女とは一致を得ているので、冥王星自身は彼女のような理性ある活動家を評価している。
そして、今回、五輪開催中にも関わらず、デモ活動を行ったことに敬意を持っている。

国際世論が一時的にチベット擁護論の過熱の時節を迎えたが、その後、活動は萎んでいる。
彼女がくれたメールを思い出すと二つの指摘が強く残っている。
五輪開催してからの海外のフリー・チベット騒動の収束化
チベット人のためのデモではなく、中国を嫌悪しているだけの抗議活動


この二つについては、予言めいたことを指摘しておいたこともあって、ショックではなかったらしいが・・・・・

去年の10月に訪日した際に、言われたことを思い出す。

私達のやってることは、私たちにとって本当に必要なことなのか?
という質問の解答はできません。
解答にならないと思いますけど、本当に必要なことだと信じて行動しています。
ただ、私は冥王星さんの危惧に対して一つ回答できるなら
冥王星さんの言う通り、中国の影響力のなくなったチベットが大混乱に陥るとしても、それでいいと思います。
その結果が世界に多大な迷惑をかけることだとしても、私の人生は私が決めることができるはずです。
だから、活動の結果、自分や周りが不幸になってもそれを悔いることはないと思います。

英文の彼女のメールを正しく翻訳できている保障はないが、概ね間違いだろう。
トランスレーターにかけたが、うまく翻訳できていないので、自前の翻訳を乗せた

最後の「私のことは私が決める」という自決権という正統性の前で、どうにも説得しようがなかった。
彼女が違法性の低い抗議行動を優先する限りは、デモする権利(抵抗権)を否定することはできない。

しかし、冥王星にとって御しがたいのが
彼女のような違法性を留意している活動家が拘束されて
まったく中国当局との関連性のない五輪イベントに対するテロ行為を働く人間が、平然としている世の中が異常としか思えない。


しかも、そのような輩が活動の安っぽさに比べて、彼女らの活動は真に迫っている

まるで「お祭りのように騒ぎ立てる似非活動家」と彼女のような活動が一緒にされるような現状がどうしても納得できない。
チベット救済という情熱ではなく、単なる中国嫌悪の活動でしかない連中と彼女は一緒ではないはずだ。
単なる中国嫌悪の連中と対抗する必要性があると冥王星は思っている。
彼らは単純に、中国が嫌いなだけで、チベットに関する知識もチベット人に関する接触さえロクにない。
そんな連中が語るチベット論よりも、まだ彼女に信用された冥王星の持論の方がマシだと思っている。

中国憎いが目的化した連中と、チベット救済を目的としている自分や彼女の方がチベット人を考えていると自信を持てる。
過信に過ぎないかもしれないが、彼女も首肯してくれるだろう。

具体的に中国当局に働きかけるための活動を現在探している。
彼女は中国国民ではないので、母国がある程度の活動をしてくれると期待するしかなさそうだが・・・・

五輪騒動でチベット問題を忘れている人は多いと思う。
彼女がチベット問題を思い出して欲しくて、デモ活動したとは限らないが、
これを読んだ人には、是非思い出して欲しい。
同時に、もし、チベット問題に対する意識があるなら、今現在で出来ることを模索してほしい。

スタンスは違えど、冥王星はチベット人の幸福を冥王星の考えなりで願っている・・・・・
彼女が早く解放されることを切に祈る。


モダンタイムス追記
 
冥王星さんが言う現在出来ることとは、過激な活動家の論理を批判し、理性あるデモ活動にすることだと思っています。
そして、チベットの政治代表権がダライ・ラマにあるような幻想を打ち破って、チベット人、チベット地域にいないチベット民族、チベット諸部族の合意の得られる体制樹立の手助けをする必要性があるのではないでしょうか?


終戦記念日特別寄稿
【2008/08/15 】   管理者一堂      トラックバック(0)   コメント(1)
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終戦記念日ということで、三件ほど特別寄稿。


靖国神社への中国の介入は内政干渉であるという見解について(ワレサ)

 靖国問題は国内問題で、中国の内政干渉という批判は実態として、論理的正当性がありません。
 国際法上、歴史認識問題の共有化という文言があり、中国政府が、靖国の戦犯取り扱いが
「歴史認識の問題」という判断であることを留意する必要が日本にはあるからです。
この「歴史認識の問題」という言葉は、日中間の歴史認識であり、日中事変に関係する戦犯問題が
「歴史認識の問題」に該当しないという立場は不可能に近い。
 したがって、靖国問題は内政干渉という論はまず成立しない。


靖国神社と参拝者が向かい合わない不都合な信心(冥王星)

 純粋に国内問題として、政治家の参拝の問題でも「政教分離」解釈の問題でも合憲と断定するのも難しい。
逆に違憲と断定するのも難しいわけで、紛糾するわけだが、
靖国の信心の自由を否定しないながらも、その浅ましさを語る自由はあると思う。
あえて、靖国神社とその信者のあさましさを糾弾するとしたら、以下の点に尽きる
1.靖国の英霊基準以外の犠牲者を蔑視する宗教背景
2.靖国神社が特定の圧力団体になっていると同時に、政教分離の側面で特定勢力と結合性があること
3.靖国神社が政治的結合をもって利権を確保してきた経緯があること

特に1.2は検証される余地がありながらも一行に検証されていない。
信心の自由で靖国が英霊をどう扱おうと自由である。
しかし、靖国を尊重しない思想を糾弾し、靖国を尊重しない自由を奪う権利が靖国にあるわけでもないし、参拝者あるわけでもない。
等しく信心の自由は保障されるべきであるはずだ。
 靖国神社は簡単に言えば、「差別信心」と言うべきだろう。
靖国が規定した英霊基準を満たさない限りは、公の場で批判されることは、信心一体化した政治批判の余地があるのは言うまでもない。
 
 国家のあり方のヴィジョンの違いでしかない戦没者を差別し、非国民、賊軍というレッテルを拡大させた罪は靖国及び、その信者にあると言えるだろう。
 そして、公明党の政教分離批判の一方で、靖国遺族会という集票団体を形成している彼らは、創価学会と同じようなものと言われても仕方ない。彼らが公明党の政教分離問題を語る姿を見てみたいものだが、概して都合悪い事実には逃避する。
 以上のように、実際は既得権益というべき靖国神社とその英霊と遺族は、その既得権益を手放さない。
しかし、彼らは己の権利を既得権益とは思わない。
これは、既得権益という見方の難しさでもあるが、靖国神社とその関係者と遺族はもうすでにそう思われてしまう状況を作り出してしまったのである。
 それが亡くなった英霊の本意なのか?は残った人間が考えることだが、今を生きる人間は概して個人を思わないで生きているのだ。
断定することはできないが、信心の自由は、他人の信心の自由を犯せるとでも言うのだろうか?
まるで靖国参拝が当然の常識のように語る人間に対しての反感は、己の信心の自由と他人の信心の自由の基準の差異である。
英霊とされない御霊を蔑む卑しい価値観の自由まで尊重するべきなのか?
価値観として自由は尊重するが、それを普遍化して批判するような野蛮人が多い靖国神社を認めるような気持ちはあまり持てない。
靖国神社の信心の自由を否定できない。しかし、その浅ましい心を「日本の心」などと認めようとは思えないし
靖国が日本の心というならば、日本人が卑しい民族と言われるだけのことだろう。


非国民という亡霊を取り扱う現代の未熟な日本人(モダンタイムス)

「非国民」という過去の言葉が今でも通用する。
本当に日本のことを思って、反戦を訴えた人を非国民を批判した人は、間違った判断で日本を惨禍に落としめた「非国民」であるはずである。
 つまり、当時、「非国民」とされた人の方が日本の将来像を正しく理解していたということになるだろう。
しかし、この「非国民」という間違ったレッテルを未だに、反省していない。
これは、戦後総括、戦争の反省が生きていない証拠ではないだろうか?

船成金のように「自分の利益を尊重している」だけに過ぎない自称愛国者よりは、
国のために批判を甘んじて受けている憂国の士の方が私には、愛国者と思えてならない。

そもそも、「非国民」という卑しい用語を平然と使用している恥ずかしさもない日本人は、戦争で何も学べなかった人間だと思えてならない。

中国の民主化は当然なのか?
【2008/08/11 】   ワレサ      トラックバック(1)   コメント(0)
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中国を国際社会の基準で図ることが多い。
しかし、
その国際社会の基準を強制することが妥当な行為なのか?
という疑問はまったく提示されることはない。
特に、問題が大きいのが「民主化」という問題である。

我々、自由主義社会の民主主義と、社会主義的な側面のある社会の民主主義は同質ではない。
そもそも、自由主義社会各国の間でも、民主主義の相違点は多い。
しかし、中国に対する民主化要求ということになると、
さも、「民主化」という明確な基準があるような言い方をする政治家、メディアが多い。

中国人民が民主化を求めることは否定することはできない。
しかし、今の中国への政治的圧力は、内政干渉という領域でしかない。
どこに中国が各国の民主化基準を強制される道理があるのか?

ひとつもない。
人権蹂躙という批判に関しても同じで、人権解釈の射程は各国の国内問題である。
さも、文明国・先進国という素振りで中国に己の価値観を強制する人間が多い状況を冷静に見れば
単なる内政干渉という蛮行をみんなでやろうとしている「赤信号みんなで渡れば怖くない」理論でしかない。

中国人民が民主化を求めている現状に対して、どう対処するのか?という課題は中国自身の問題である。
仮に、内政干渉できるとしたら、相手国である中国の合意があっての行為しか許されない。
そして、このような秩序が国際社会の一面であり、中国というパワーある国家が採用できる国策である。


冥王星氏と以前、中国の民主化と中国の将来像に関して議論して一致した部分が興味深い。
 まず、中国の崩壊というシナリオは盛んに喧伝されるが一向に現実味を帯びてきていない。
ここ10年ほど、一部の妄想壁のあるオピニオン誌の妄言が現実化したことはない。
すべて中国への悪意からしか思考できない未熟な思考回路が充満しているのが、今の国内世論である。
そもそも、それらの無能の輩の中国崩壊のシナリオは世界経済の危機的状況を想定することもしない。
おそらく想定できないか?想定した記事を書けないほど「中国崩壊」という前提が固定化しているのだろう。
仮に、中国がハードランディングしたとして、どこまで既存の世界経済への悪影響が及ぶか?
まったく想像できない。
想像できないほど巨大化してしまった中国経済の現実から、彼らは現実逃避しているのである。
そんな彼らの現実味のない夢見がちな妄想に付き合う自由は否定しないが、ノボセタ持論を「正論」などと言い出すその羞恥心の無さは頂けない。
 もっとも、統計学の基礎もない科学思考もない産経新聞だからこそ、盲目でありえるのだろうが・・・

次に、中国の民主化というシナリオでもっとも恐怖することが、中国がアメリカを凌駕するユニテラリズム国家になる可能性の問題である。
 あくまでも私的な見解だが、中国が民主化すればそれだけ新しい中国の発展の伸びしろが大きくなる。
 つまり、民主化で中国は今以上に強大化するだろう。
 民意次第で暴走してしまう民主主義は、時には全体主義という暴挙を誘導する。
むしろ、中国人民は孫文以後の民主化のプロセスでは、知識階級の形成過程を経てしまっている。
ヘゲモニー論で語るべきではないが、中国の民主化は、中国の国際社会の影響力の強大化に帰結する可能性が高い。
 あの膨大な人口、可能性、潜在性をフル動員されては諸外国はひとたまりも無い。
 
 だから、中国には永遠と「民主化せずに、愚民化政策で共産党独裁という安定的な国家像」であるほうが、世界的に見れば妥当ではないだろうか?

 中国人民の幸福のために、中国のユニラテリズムの可能性を否定することは問題かもしれないが、
「民主化した中国の脅威」
という想像がない世界市民を見ているとどうも楽観的としか思えないのである。




対談:極東軍事裁判
【2008/08/11 】   管理者一堂      トラックバック(0)   コメント(0)
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以前、メルマガで企画した対談記事です。 国際法、国際政治関連の記事は、冥王星、ワレサ、そう箭内の三名の許諾が簡単に出るので、問題なければドンドンUPするつもりです。 対談メンツのアイコンは適当ですw
け~ね冥王星。
メルマガ主催者
NOW PRINTワレサ。
元欧州亡国の外交官
そう箭内。
どこぞの社会人大学の准教授。
東京裁判に関しては、今回は法的な正当性・政治的正当性という二つの視点で論じることを前提とします。 これは、国民世論のようなお粗末な感情論を避けるための手段です。    
け~ね 東京裁判という軍事裁判を法的正当性、政治的正当性に分けて最初に評価しておきたいと思います。
まず、私は、法的正当性も政治的正当性も認めるスタンスです。
NOW PRINT 私は、”政治的正当性はあれども、法的正当性がない”、です。
俺は、”政治的正当性はなく、法的正当性がある”だな。
NOW PRINT 国際司法は国際法に基づいて判断するべきであり、政治的要素は司法に介入する必要性を認めません。
 つまり、国際司法は遵法であり立法機能を持たないものであると思います。
 例外として、国際司法裁判所、国際刑事裁判所など合意を得れる規範が生み出せる組織があった、その合意を批准できるような国際社会ならば、司法の立法権をある程度は認める必要性もあるでしょうが、
 国際政治も三権分立は当然の摂理でしょう。
 だからこそ、東京裁判は、その司法過程、事後法などの法的不備から法的には正当性を見出せません。
け~ね事後法、つまり、「法の不遡及」という原則は国際法における常識としていいのかな?  確かに一般法でも事後法は許されないが、それも100%ではない。それに国際法は拘束性の問題があるからこそ、政治的要素の介入の余地が過分にあるわけだ。  法という言葉の範囲は広くて、政治的配慮によって「法」が変化することもある。 例えば、光市母子殺人事件などでも、既存の法規範が更新されて、死刑が確定したわけだ。 ああいうのは、法解釈の領分とも言えるけど、政治的介入による法の変化というべきで、東京裁判も連合国の政治介入が意味を為したわけだ。 それが正当性がないというなら、法はどうやって決まるというわけ? 法は合意形成で決定されるものであって、超然と存在しているものではないでしょ? その合意形成で構築される法となった東京裁判の判決を二度も追認している日本が、今更、合意を無効にしろ、とは無茶苦茶な話しでしょ。 ワレサさんの法的正当性というのは、既存の国際法が司法解釈で更新されるものではなく立法者が固定しているような話で、納得できないなぁ
 法的正当性の源泉は、合意形成だろう。これは国際法、国内法問わない話。
連合国の一定の理性が裁判という不要な形式を経ただけの話が、東京裁判。
  こういいたくないが、法的正当性というのは、法解釈の厳密さを追及できる法曹界の人間ならまだしも、一般人には無理。裁判員制度、陪審員制度など見ても分かるように、裁判は法的正当性だけで論じる空間ではなくなっている。
 そもそも法的正当性を確立する手段なんてのは形式論で、法曹界の人間が勝手に判断するもの。
 んで、政治的正当性と法的正当性を分離することがそもそも一般人にとってはナンセンス。
今回は、政治的正当性がない側に廻るけど、分離して議論することは身勝手な法解釈、政治解釈を広げるだけであまり乗り気にならない。
NOW PRINT 箭内さん。そこは大人の対応しておくれよw
 要約すると、
冥王星さんは、法的正当性は政治的正当性の支配下にあって更新されてしまうもので東京裁判のケースは、政治的正当性によって法が更新された、ということ。
箭内さんは、法的正当性と政治的正当性の分離が無意味という持論なわけですけど、冥王星さんと同じような見解
こんな感じでいいですか?
 冥王星氏とは政治的正当性では違う。東京裁判は政治的正当性を認められない。
 そもそも、裁判なんぞで裁く必要性ないものをわざわざ裁判という権威付けで正当化することが政治的無意味ということがある。
 裁判したからそれで決着するような理性ある国家でもない日本相手に、裁判するなんてのは、政治的妥当性を為政者だけが作り出した幻想で、当時国民は裁判なんざ希望してなかっただろう。
 むしろ、政治的には、これまでのように軍政統治で戦争責任者は、それこそ形式的な国内法廷で死刑確定でやれば問題が拡大化しなかった。これは結果論ではなくて、当時の国際法の世界的国際法の理解度、尊重度からしても推測されること。
 もっとも、その浅い国際法理解を啓蒙するために、国際法廷という場所にしたという見解もあるが、あのような条文では戦勝国も裁かれるしかない。
NOW PRINT そこは簡単だと思います。
 太平洋戦争の大義を日本国民は疑おうともできなかったし、法的咎めることができない。そして、国内法で処断される為政者がいれども、国際社会が、日本国という国内法だけで裁くことに満足できなかったというべきでしょう。
 つまり、憎い日本をリンチしたかった。そのためには国際司法で事後法でという方法論しかなかった。
それだけでしょう。
箭内  なにもリンチなら国際司法じゃなくても、植民地化できたんだから軍法で処断すればいい。むしろその方がやり易いわけだ。
 にも関らず、国際法ということが意味あるんですよ。
NOW PRINT  私は、国際法問題では啓蒙のために国際法廷にしたと思ってます。
 実際、戦犯は国内法で裁くことが重要で、そこで裁けないという状況で東京裁判というプロセスがあったと思うんです。
 なぜ、国内法で裁かなかったのか?というのは、案外ポイントがあると思うんですよね。
け~ね 箭内タソの言う通りです。リンチは国際法よりも、相手国の軍法を手前味噌解釈、軍政統治下の軍法で裁けばいい
 そもそも、裁くことなく銃殺するのが一般的でしょ。
 もしくは、自国民に殺させる?
 案外、日本国民が暴動するという観測があって、戦犯の取り扱いを考えてなかったかもねぇw
 俺は不満としてもう一つあるんだが、
東京裁判の批判で、不遡及、判事、証拠などの問題を九官鳥のように叫んでる奴らは
その東京裁判の判決を日本政府が認めた、戦犯自身も否定しなかったという事実をどうやって反故にしようというのかね?
そもそも、法なんてのは、TPOで可変なわけだし、時代を経た現代の常識で語ることがそもそも、ナンセンスという意識なんかないっしょ?
ワレサは国際法、冥王星は歴史に詳しいから当時の状況を詳しく想定する能力があるだろうけど、一般の人にはそんな知識ない。
存在する合意、追認という事実を捨て去って意見しているのは、都合悪いものを忘れて議論してるだけの話だろ・・情けない話だよな
俺は、不遡及だろうと、合意、追認した事実をもってして、法的正当性は確定しているし、その政治的意思を覆せない以上は、過去の判例を無意味に遡及させるような蛮行としか思えないね。  そもそも、反論者は、新しい事実証拠を提示して反論してるわけじゃない。そして、反論している連中は原告でも被告でもない。
 傍聴席にも座る資格もない烏合の衆なんだしな
け~ね まぁ、厭世な見解は・・・・  箭内タソはさ。光の母子殺害裁判を見て、法のあり様の認識が変わるだろうとか言ってたけど、東京裁判にも関係する話でしょ?
 んだ。つまりは、政治的配慮。戦勝国側の立場として戦犯を有罪にしないわけにはいかないわけだ。感情論としてな。
 母子殺害の加害者は、死刑になるための必要な4人以上という基準に満たないにしても、世論の死刑要求に対する配慮が裁判では通ったわけだ。これは、既存の法解釈が、政治配慮で更新されたわけで、この更新作業は、東京裁判でも行われても仕方ないだろう。
 国際法的な不備にも関らず、戦勝国側の立場=国際世論が戦犯を有罪とさせようとした。だから、有罪になっただけさ
NOW PRINT 実はさ。また振り出しに戻すことになるけど、
国際社会って法治主義じゃないんだよね。
国際法はあれども、その拘束性は各国の主権を凌駕しないし
国際法は批准をもってして完成するけど、その実効性を担保する行政が国際法を尊重できないこともあるし
国際法を純粋に法として取り扱うべきなのか?という問題含めて議論するべき問題なんだと思う
け~ね それはあるね。
 東京裁判批判の体勢は、国際法を勝手都合に解釈している部分では、アメリカと同じだし
批判しているくせに、一方では、国際社会の法治主義を否定するような話も堂々とする。
見事にダブルスタンダードなんだよね。
逆に、国際社会は、国際法による法治主義ではなく、パワーマネンジメントに過ぎないという立場が国際法に対する期待をしてるから複雑だね。
 それは言えるな。東京裁判批判の論理は概ね罪刑法定主義であり法治主義のはずだが、そのくせに、批准した国際法基準を批判する。 公務員の争議権、高等教育の無償化など国際法である基準を当事国のエゴで擁護するからな。
NOW PRINTまぁ、あくまでも国際法は批准を経て有効になるわけですからね。それに解釈の猶予もありますから
け~ね解釈の猶予というのは、自分にはあっても、他人にはないものですかねぇ、という厭味はダメですか?w
NOW PRINTいや・・もちろん、相互に解釈の猶予はあるけど
 二人はそれこそ好きで取り扱ってる分野かもしれないけど、俺は東京裁判なんかどうでもいいんだよ。
戦犯の名誉を回復するとかの美名で、彼らの国内法違反は消え去るわけじゃない。
むしろ、遺骸を掘り返して鞭打つような状況にするだけだろうよ。
善悪の判断は各人の問題でどうしようもないが、他人様の名誉など持ち出してきている人間なんぞ信用できんね。
第三者が当人の名誉を知るはずもないし、判決を覆してほしいと当人の希望があるわけでもあるまいに
これは残酷かもしれないが、為政者なんぞ叩けば叩くほど誇りが出る。戦犯も叩けば叩くほど、醜聞が出るだけかもしれない。
歴史の改竄なんぞは平時のことで戦犯は己の業績を喧伝する立場だからこそ、どれだけ改竄、誇張したか分かったもんじゃない。
文献の証拠を残さないアフォ為政者だからこんなハメになったわけで事実はどうにでも捏造されるもんだしな
静かに眠らせるべき遺骸を掘り起こして、目も当てられない状況にした奴は、戦犯以上に問題だと思うけどな・・・
で、第三者が当人のために思ってやったことは、第三者にとっての行為でしかないことを見据えておく必要があるな。
け~ね まぁ、戦犯が戦犯であるのは、彼らの正当性を確立するための揺るがない証拠を残せないのが原因ですからね。  戦争の大義とかはどうでもいい話として、為政者は結果論で全て判断されるのだから、彼らが戦犯として取り扱われることは受任するべきことでしょうね。  同時にそういう為政者を頂いた国民にも責任はあるわけで、後世の我々が騒いでることがそもそも、変なのかもしれません
NOW PRINT冷たいな・・ちみたち
 冷たいんじゃなくて、逆らうことに意味があると思っているのが理解できないわけだ。
太平洋戦争の正義が肯定されたとしても、戦勝国の正義は揺らがないわけだ。
仮に揺らぐならば、今の国際社会の秩序や体制を否定しなきゃならないけど、否定して生きてゆける人間なんていない  
東京裁判は不当だから否定が成立したとしても、それを受任した日本、戦犯の名誉は回復するとは限らない。不当なものでも認めた不義が残る。
東京裁判批判者は何が言いたいのか・・それも分からない。東京裁判が否定されたとして罪は消えない。
詳細の事実認定が訂正され、判決が覆った状況であっても、判決を合意し、追認した事実が否定されるわけじゃない。 
なにやっても、無意味なんだよ。
国際社会が大人ぶって、東京裁判は間違いだったとしてそれでどうなる?
二人はどうなるか?なんてのは分かるだろうけど、批判者は解答できないだろう。 俺はどうにもならないことがあるから、語る価値を見出さないんだけどな。
け~ね またいつもの一刀両断が・・・  でも言いたいことは分かるよ。
 東京裁判という法治主義という理想像では国際社会は統制できないことは、これまでの歴史が証明している側面で
国際社会はパワーマネンジメントであることが現実であって、それ以上でもそれ以下でもない  そういうことでしょ?
 結論はそうなる。  ついでに言えば
戦犯を国内法、国内法廷で裁かせるような苦痛があったと思う。
それは結果論として避けられたという見方もある。
しかし、それを今、政治的な意味で検証する必要性を考えるべきだろうと思う。
これは、検証裁判を行えということではなくて、検証作業を行う議論をするべきだ、ということだ。
この話は、もう20年前からやってるが全く進まない話になっている。
なにより、当時の軍法、一般法に詳しい人間がほとんどいない上に、軍法資料が皆無に近いからだ。 明言は避けるが、おそらく軍法会議資料はほとんど終戦と同時に抹消されたと思う。
負けない限りは、軍法会議にかけられることもないだろう上層部にとっては、敗戦=国内法リンチだから、当然、国内法リンチの証拠隠滅を図るわな。
未だに、軍法が整備できない自衛隊の状態の背後に、戦後の軍法資料の問題がある・・・
これは冥王星には教えたことだが、あんまり語られない話だろうな。
け~ね それについては、私は結論が出てますよ。
箭内さんの言う通り、軍法資料は戦後隠滅したんでしょうね。証拠はありませんが、資料がほとんどないことがそもそも異常です。
隠滅してないならば、資料を残してないというオチだと思います。
概していえますが、日本人の書類保存意識の低さはどうしようもないです。
NOW PRINT東京裁判という結果論だけで語る立場だからコメントしないけど、パール判事の話し行こう
け~ね 私はパール判事の日本無罪論は、「連合国が無罪であるから」という前提論であって、日本の蛮行を批判していること、戦争の正当性すら認めることもなかった、という部分では法学者としてのバランス感覚、純粋な法解釈としては肯定するべきだと思います。
 しかし、現実の国際法として無罪にすることの政治的妥当性はありませんからね。
 パール判事はワレサさんと同じく純粋な法解釈でしか司法判決を出さない部類ということでしょうね。
 そして、それが国際法のあり方として妥当なのか?というのは、現在でみれば妥当性はありませんね。
 国際社会の秩序は法治主義ではなくパワーマネンジメントです。
 国際法という法も暴力装置による担保が伴わない政治環境では意味を為さないことを考えれば、パール判事の考え方は、法曹界の人間としては一貫性があるとしても国際法のリアリティ、将来という視点では現実逃避し続けていたというのが妥当な判断だと思います。
NOW PRINT そういう評価はあるよね。
 でも、パール判事のああいう判決があるからこそ、国際社会の法治主義、国際法と国際司法のスタンスの問題など様々な問題提起が行われたわけだ。
 冥王星さんと同じく、パール判事は「日本無罪論」は加罰性を見出しながらも、論理整合性の部分で無罪にするしかなかった。
   そして、逆に彼は平和主義者のディレンマを抱えていたからこそ、一方だけを有罪と出来なかったんだろうと思う。
 パール判事の平和主義ってのは、盲目的平和主義だろ。ガンディー信仰とでも言うべきか?
 ああいう思想で国際司法を審判する非常識さが当時あると言えないか?
 俺からすれば、パール判事は非常識な思想家としか言えないし、あんな思想家に法解釈できるとは思えん。
 法律家はイズムがあっても、そのイズムから乖離して法を司るべきだろうに・・・
同時に、それを持ち上げるつもりには到底ならないね。
 ただ、無罪になりたいからってパール判事を持ち上げてる輩を何人か見てきたが、パール判事の思想とは対極にある連中がパール判事を持ち上げている壮絶な光景は、かなり笑えるよな。
 当人が持ち上げている人間を見たら、説教食らわす可能性もあるだろうな。
け~ねそういう乱暴な話は・・・・
しゃ~ないだろ。学術的にどうのこうのという水準でやっても無意味だろう。  それとも、俺がアカデミーに染まって意見して盛り上がるとでも?
NOW PRINT 多少なりとも、アカデミズムに間違っている部分があれば指摘してほしいということです。  我々の視点はあくまでも、自分の専門の立場を逸することはできない狭い世界ですから、他者の世界の異論を知りたいだけです
 だって、おまえらに説教タレるほど俺は偉くないし、興味ない話題なんだもんなぁ
け~ね ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
NOW PRINT  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 東京裁判論争をやるな、ってことじゃない。
要は、当時の法哲学、法価値論、法規範論などを踏襲できない状況の現代人が語っていることに、どれだけの意味があるのか?という認識を持てということだ。
 近代化した設備で証拠資料の真贋が科学的に解明されたとして結審した裁判は再審しようもない。そもそも、再審するシステムさえないんだからな。
 逆に再審させてくれ、という主張もあんまり聞かないのも不思議だけどな
結局は、東京裁判論は、肯定派も否定派も自己満足、義憤に過ぎない。
政治的決着によって成立した司法判断を、法的決着で再審査しようというのも道理っぽいが、司法は法のみで語るものではない。
司法も政治なんだからな。法は政治の影響下にあり、政治は法の影響下にない部分が多いのだ。
そして、その法治主義を尊重できない日本人が東京裁判だけは、法治主義で語ろうというのは、馬鹿げた話だ。
法治主義で決まったルールを実力をもって変えさせようというエゴイズムを持ち出す輩が語る東京裁判の話なんぞ俺にはクソでしかない。
もっとも、二人は当時の状況を知るだけの材料を持ってるからマシだけどな
この後、箭内さんは一人で「八海山」を煽っていた。
冥王星総括  本件の論点は、おおまかに3つ ①国際司法・国際法廷、および国際社会は、法治主義であるといえるのか?それを目指すことが国際法のリアリティなのか? ②合意した内容に対する責任 ③東京裁判という問題に対する国民の取り組みのエゴ 対談記事は簡易ものもありますが、アイコントーク型を意識しておりますので、完成まで時間がかかりますので、ご了承ください。 なお、この記事は2007年の8月メルマガの対談記事から抜粋しました。

PKO法に思う
【2008/08/06 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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 日米安保に引き続いて、PKO法を取り扱います。
先に私見を述べておくと、改正以前のPKO法までは肯定的ですが、改正以後のPKO法に関しては懐疑的です。実態のPKO法の評価はここでは行えません。
 それでは毎回ながら、”思考停止””やり逃げ””自慰的”に展開します

第一条(目的) 
この法律は、(1)国際連合平和維持活動、(2)人道的な国際救援活動及び国際的な選挙監視活動に対し適切かつ迅速な協力を行うため、国際平和協力業務実施計画及び国際平和協力業務実施要領の策定手続、国際平和協力隊の設置等について定めることにより、国際平和協力業務の実施体制を整備するとともに、これらの活動に対する物資協力のための措置等を講じ、もって我が国が国際連合を中心とした国際平和のための努力に積極的に寄与することを目的とする。


PKO活動に参画することは、憲法前文にある精神を違えるものではない。
問題はその手法であることはいうまでもない。
(1)国際連合平和維持活動
国際連合の総会、または安全保障理事会の決議にもとづいておこなわれる、武力紛争の当事者間でむすばれた再発防止の合意の確保、また、武力紛争の終了後におこなわれる民主的な手段による統治組織設立の援助、などの活動に参加
(2)人道的な国際救援活動及び国際的な選挙監視活動
国際連合の総会、安全保障理事会、もしくは経済社会理事会の決議、または特定の国際機関の要請にもとづいて、紛争によって生じた被災民の救援や、被害復旧の活動に参加
国際平和協力業務の具体的活動内容については同法3条に指摘がある。

第二条(国際連合平和維持活動等に対する協力の基本原則)
2 国際平和協力業務の実施等は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない。

条文によって、より武力の行使が強く伴うであろうPKF活動は先送りされたと言える。同時に憲法9条の再確認である。
PKO参加五原則
(1)紛争当事者間の停戦合意
(2)日本が参加することに対する紛争当事者の同意
(3)中立的立場の厳守
(4)以上の原則がみたされなくなった場合の撤収
(5)武器の使用は、自衛隊員の生命・身体防護のために必要最小限に限ること
同法に明確な記載はないが、同法草案審議時に与党側の提示した活動要件である。
(1)については、停戦合意によって自衛隊が武力行使の可能性が逓減したのは事実ではあろうが、その安全性の確証的保障はない。
(3)中立性の評価はいかにして行われ、論理的立証が可能か?
(5)違法性阻却事由の判断とそれをどう審査することができるか?
要件として、武力行使を掣肘し、9条を尊重する姿勢はあるのだが、評価の困難さと武器使用の要件の判断の困難さなど現実的な問題が指摘される。

成立後、
国連カンボディア暫定機構(UNTAC)
国連モザンビーク平和維持活動(ONUMOZ)
ルワンダ難民救援国際平和協力業務
ゴラン高原に展開する国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)
上記などの支援地への輸送業務や難民への医療活動などにあたった。

1998年、2001年に同法は部分修正(加筆)したその内容は(98年は赤太字、01年は青太字
第二十四条(武器使用) 前条第一項の規定により小型武器の貸与を受け、派遣先国において国際平和協力業務に従事する隊員は、自己又は自己と共に現場に所在する他の隊員若しくはその職務を行うに伴い自己の管理の下に入った者の生命又は身体を防衛するためやむを得ない必要があると認める相当の理由がある場合には、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で、当該小型武器を使用することができる。

これは、改正前においては”個々の隊員の判断”とされていたのを、”上官の命令によると改正、部隊として対応”(98年)、から、”他国のPKO要員や政府要人、国連機関職員ら”を、事実上武器をつかってまもれるようにしたと判断できる。参加5原則の(5)の「武器の使用は要員の生命の防護など必要最小限」というものは、”正当防衛、緊急避難”を想定したと考えることができる。しかし、”武力の行使”と”武器の使用”とは概念的に判別できない。政府見解をみると
「一般に、憲法9条1項の『武力の行使』とは、我が国の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為をいい、法案24条の『武器の使用』とは、火器・火薬類・刀剣類その他直接人を殺傷し、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械・器具・装置をその物の本来の用法に従って用いることと解される。
「憲法9条1項の『武力の行使』は,『武器の使用』を含む実力の行使に係る概念であるが、『武器の使用』がすべて同項の禁止する『武力の行使』に当たるとはいえない。例えば、自己または自己と共に現場に所在する我が国要員の生命又は身体を防衛することは、いわば自己保存のための自然的権利というべきであるから、そのための必要な最小限の『武器の使用』は,憲法9条1項で禁止された『武力の行使』には当たらない。」(1991年9月27日政府統一見解)
まず、自己保存の自然的権利は憲法以前に尊重されうるべき権利であり、これを尊重するしかない。よって、正当防衛は刑法上でも認められる権利として加味できる。 しかし、緊急避難では、条文では、上官の指揮命令の元での「武器の使用」は組織的軍事行為であり、「武力の行使」になりかねない。
同時に、”国、またはそれに準ずる兵員”に対する武器の使用は、違法性阻却が可能にしても、”武力の行使”になる。
厳密な武力行使の解釈は個人に依存する事項になるが、政府見解を鑑みるに、矛盾したものを思える。

1998年の改正ポイントの補足
同法1条の補足など:国際的な選挙監視活動を、国連とその専門機関、また国連憲章第52条に規定する地域的機関の要請にもとづいておこなうと改正し、物資協力にも国際的な選挙監視活動に対するものがくわえられた。より広義な国際平和協力を盛り込んだと言える。

2001年の改正ポイントの補足
同法3条の補足:(1)武力紛争停止や武装解除の監視、(2)緩衝地帯などへの駐留や巡回、(3)運搬手段や武器の搬入・搬出の検査や確認、(4)放棄された武器の収集・保管・処分、(5)停戦線設定の援助、(6)捕虜交換の援助、などの実施が凍結されてきたPKF本隊業務への参加の解除が盛り込まれPKO活動を国際標準(前線により近接とした業務)に近づける方向性になった。
同法9条8項に
自衛隊法第九十五条の規定は、派遣先国において国際平和協力業務に従事する自衛官には適用しない、しないことになったわけだが、
自衛隊法95条は武器等の防護・自衛隊の施設の警護のための武器使用について規定しているもので、武器使用環境の法整備が進んだ。

残念ながら明白なPKO法の違憲性は見出せない。ただ、事態によっては十分、違憲性を持ちえる可能性を含んでいる。
(以下、翌日加筆)
PKO活動において、抽象的かつ不明瞭なのが、PKFとPKOの差異である。
PKOとは、”安全保障理事会の決議で、紛争当事者の許可を得たうえで、国連加盟国が自発的に要員を提供するものであり、法的に明確な根拠があるわけではないものである。
PKO,PKFの明確な差異はそもそも存在しない。戦地ではないにしても紛争が想定される地域における治安維持活動など武力行使が比較的強く想定されるよりPKOの本旨に近い業務がPKFである。
PKOは軍隊行為ではなくても、可能である、PKFは軍隊行動であるという大枠的なイメージが妥当ではあると思う。
ただ、近年のPKOの質の変化は、より危険性が増していると言える。
戦地で対立する両軍の間に割ってはいるような旧態以前としたより中立的な活動の限界があるのも憂慮されることであると思う。




国家の構成要件、台湾
【2008/08/06 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(1)
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 今回のお話は「国家の成立要件」「政権継承権」「一つの中国」という言葉がポイントとして、台湾と論じておきます。


国連憲章(日本語)第23条〔構成〕
安全保障理事会は、15の国際連合加盟国で構成する。中華民国、フランス、ソヴィエト社会主義共和国連邦、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国は、安全保障理事会の常任理事国となる。総会は、第一に国際の平和及び安全の維持とこの機構のその他の目的とに対する国際連合加盟国の貢献に、更に衡平な地理的分配に特に妥当な考慮を払って、安全保障理事会の非常任理事国となる他の10の国際連合加盟国を選挙する。

 この条文を読むと「中華民国」という国家が存在してることになり、
同時に、常任理事国という扱いになる。
現在の「中国」である中華人民共和国が常任理事国である。
実際、蒋介石率いる国民党が1945年当時は「中国」の政党政府であったわけですが、それが中国共産党に据え替わることになる。
しかし、台湾国民党は台湾に落ち着いてもしばらくは国連に「中華民国」としての代表を送り続けていた過去があります。
 代表権問題といわれる「中華民国政府継承問題」は
”中国本土”を実効支配していた共産党政府を中国の正当政府と認める国連決議(アルバニア案)が採択され、中華民人共和国が「中国」という取り扱いを受けるようになりました。
厳密に理解をさせるならば、
国際法的には「中華人民共和国」「中華民国」とも中国を示す呼称というスタンスであり、
国連憲章の「中華民国」という文言は中国を意味するものとして実質的には「中華人民共和国」と読み替えている、ということです。
 このアルバニア決議によって「中国」は「中華人民共和国」として理解されているわけですが、国連憲章、アルバニア案の内容を否定するであろう独立地域台湾=中華民国という存在は、
国際社会で正式に承認されることはありえません。
このアルバニア決議(1971年)から米中の和解、日中国交正常化とシフトし、現代の国際社会の秩序形成に至っています。
 この決議の元に、
台湾政府は「中国」ではない上に、中国は1つということになるのです。
これを鑑みて、李登輝総統は「中華民国の呼称を捨てよう」としたわけですが、陳水平氏は呼称を捨てずに独立を想定してるようです。
 国家の構成要件は、一般的には「領土」「国民」「主権」であると言われます。
ただし、この三つの権利を保持することだけでは国家たりえないのが現状です。
その証左といえるのが、台湾、チベット、バスクなどの地域の問題です。
国の権利及び義務に関する条約(1993年発行)
第一条 国の要件
  国は国際法上の人格を持つ為に、次の資格がなければならない。(イ)永久的住民、(ロ)明確な領域、(ハ)政府、及び(ニ)他国との関係を取り結ぶ能力

 この条約からしても、イは「国民」、ロは「領土」、ハ、二は、主権だと解釈できます。
確認の上で指摘しておきますが、韓国併合において、
韓国政府の外交権を認めなかった日本の支配というのは、(ニ)の外交権の意味で韓国は独立していたということにはならず、植民地支配であることと考えられます。
 他国との外交関係を構築するためには、当事国の政治権利を認めることでしかありえません。
つまり、対象国が、外交国の国家として認知しない限りは、関係構築ができないという事実です。これは「主権」の枠内に入れることもできる話ですが、
対象国の「国家認証・承認」がないと国家としては成立しえないわけです。
この問題で、日本もアメリカもアルバニア決議を受け入れた時点で、中華民国という呼称は中国共産党にあるということになっています。同時に共産党政府のスタンスだけでなく、中国=中華民国が複数あるとは言い切れない上に、共産党政府が「1つの中国」をいうヴィジョンの元での外交展開をしているため、台湾の「中華民国」は国家として認めることができないわけです。
ただし、法理的には、「中華民国」という呼称を放棄すれば、台湾の独立は不可能ではありません。それでも、共産党政府が独立を許すはずはないですが、法理的な矛盾は回避できるわけです。
この話題をする背景には、台湾、チベット、だけではなく、沖縄の独立を想定した場合を考える上で重要だと言えます。
 台湾、チベットが独立できない背景には、第三国がその独立を承認することを宗主国に遠慮してできない背景が強いなどの部分があります。
承認が得れない状況で国家として認めることは、「尚早の承認」ということで国際法違反になります。満州国などはいい事例でしょう。
 この承認の作業は厳密には各国の自由裁量であり、国連などで加盟手続きにおいて、反対の意志を示すことが無い限りは、独立申請国は承認されたと解釈されるようです。
 平素、独立を簡単な肖像で論じている人が多いようですが、実態ある独立がない限りは、そうそう独立などは認められないことを理解する必要性があるでしょう。





少年法、メディア倫理、社会制裁
【2008/08/06 】   冥王星      トラックバック(1)   コメント(0)
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 少年犯罪の実名報道(週刊新潮)のあり方と、それにどう図書館が対応するべきか?
これが今回のテーマです。
 まず、少年法の法的な概要をまず確認する
少年法より61条から
 
第六十一条  家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。

法理的に解釈すれば、
この実名報道をした時点では、審判中ではない。従って明確な違法性とは言えない。
同時に、読売新聞の場合は、容疑者の少年の死亡を受けての報道ではある。
少なくとも少年法61条に抵触するとはいいきれない。
しかし、少年法の精神からするとどうなるだろうか?同法1条の雑則から
第一条  この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年及び少年の福祉を害する成人の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする。

 日本の刑罰の基本思想は教育刑罰である。
アメリカなどのシビルローとは違い懲役100年とかとんでもない服役は存在しないし、
社会復帰を前提とした受刑者の教育プログラムとその予算が組まれている(法理的には教育刑という精神性は少年法に明確に見られる)
 応報刑の精神性であれば、新潮の報道は論理的には正当性があるだろう。
しかし、少年法の法の精神を逸脱する報道であって、
61条の解釈を文理解釈の従うと、審判中ではないことで違法性がないと言えるが、1条の少年法の法の精神から逸脱していると言える。
「再犯を危惧する」という意味での掲載がどれだけ説得力があるのだろうか?
例えば、軽微な犯罪を犯した更正の余地のある少年であっても再犯の可能性があるから実名報道していいのだろうか?
新潮の調べで、容疑者の再犯の可能性などを合理的に立証できたわけではなく、可能性の部類である。同時に、再犯の危険性などを危惧したのであっても、新潮は取り締まり機関でない。このような手法を取りつづけることは危険である。
一般民間人が違法駐車を取り締まることができないと同じように、法を取り締まるのは権力機関であって、市中の人間ではない。
そもそも容疑者の段階での実名報道は法的に許されているようだが、厳密には違法行為である。
慣習的に放置されている現状が異常な法治国家状態という批判の方が理性的であるだろう。

 結果論においては、容疑者は再犯することもなく、命を絶っていたわけである。
「知る権利」として報道するスタンスは否定しない、
しかし「知る権利」は無限ではないし、文理解釈からは違法性はないにしても、法の精神を逸脱した行為を認めることは冥王星にはできない。

 新潮のバックアップ記事を入手したのだが、週刊誌らしい扇情的な記事で警察発表との差異が多い。
新潮社そのものが多くの「知る権利」において敗訴してる事例(創価学会関連)、FOCUS(廃刊)でも同じものがある。
誤報や過剰な報道が多く「水俣病のチッソ」を擁護したり、違法行為を行う右派団体なども擁護した、福岡一家4人殺害事件でも被害者家族のプライベートな部分を暴露して裁判でも負けている

少年法の実名報道では「神戸連続児童殺傷事件」においても新潮社は実名報道をしている。
フライデー事件の「たけし軍団」の襲撃事件などでも分かるように、過剰なプライベートを侵害する報道姿勢には、新潮社の問題もあるし、新たな犯罪を誘発する恐れもある。
この事件後、たけし軍団が右翼団体に襲撃されるなどの経緯を見れば、行過ぎた報道を掣肘する必要を感じた国民がフライデーなどの過激なジャーナリズムを需要しなくなったこと、FOCUSの報道姿勢の変化などからも、明らかに、国民は過剰報道に対する意識が高くなったと言える。(当時の官房長官で政治家後藤田氏も過剰な報道姿勢を諌めている)
 新潮社だけを槍玉にあげるわけではないが、ここは、司法的にも負けていることが多く、誤報の訂正広告なども多いのも事実である。そんなマイナス部分を含めて需要する国民がいるからこそ、問題であるのかもしれない。

さて、新潮社については、所詮はこの程度というか、覚悟をして需要してほしいのだが、問題は、一般の新聞、テレビの姿勢も問題である。
読売新聞、テレビ朝日などの報道姿勢は、容疑者の死亡が確認された時点での報道であり、これは少年法の法の精神からして、更正の機会を失った上で公開することに違法性がないというスタンスで理解は可能である。
しかし、道徳的にどうなのだろうか?例示として相応しくないが、死者に鞭を打たないというようなモラルは存在しないわけでもないし、事実、右派の戦犯のスタンスでも死者の尊厳などを標榜する。
公的な人間の尊厳と一般市民の死の尊厳は同質だろうが、その背後の罪科の差異は規模がまったく違うし、責任の荷重も違うはずである。そこを踏まえて「死者へのモラル」というものから、考えると理解はできない。
一般的コンセンサスにおいて、死者の尊厳を傷つけていいものとは思えないし、被害者も加害者も未成年ということを鑑みると行き過ぎの感がある。
 ただし、新潮社と違い、法の精神を違えているとはいいがたく、モラルというレベルでの違和感であり、これは法秩序という問題ではなく、価値観の問題であり、論理的にも100%否定できないスタンスではある。
しかし、言及したとおり、死者への尊厳という意味では、同質かつ論理的矛盾のない報道姿勢であるべきだろう。


さて、表題の図書館の問題を考えよう。(メインはこちら)
 図書館法1条から
第1条 この法律は、社会教育法(昭和24年法律第207号)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする。

この社会教育法の1条から
 
第1条 この法律は、教育基本法(昭和22年法律第25号)の精神に則り、社会教育に関する国及び地方公共団体の任務を明らかにすることを目的とする。

教育基本法前文、1条からは
前文(省略)われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 図書館としては個人の尊厳を重視し、教育的趣旨で国民の健全な育成に貢献するというスタンスである。
 だとすれば、加害者の実名報道の法的な問題がある以上は、公の機関として、違法な記事を検閲しないわけにはいかない。
この部分を検閲しないことは少年法を軽んじることを図書館が認めることになるわけである。少年法の法の精神に関して、
前述したとおり、更正の機会創造を前提としたものだと規定すれば、図書館の処置は確かに、過剰だと言える。
しかし、公的な機関としてのモラルがあると思う。
読売新聞の記事の記事から抜粋するが
日本図書館協会の松岡要事務局長は、「図書館は言論の自由を守る役割がある。記事の内容は読者が議論すべきことだ。一般的に閲覧制限は検閲につながる。図書館は資料を提供し、国民の知る自由を後押ししなければいけない。記事内容の判断には、極めて慎重でなければいけない」

 そもそも、図書館に言論の自由を守る役割があるのだろうか?
上記した通り、図書館の法的な役割は教育姿勢にある。
個人の尊厳まで抵触して、言論の自由は守られるべき、ということなのか?
図書館は、言論の自由の元に存在するにしても、自律的に守ってきたわけではない、国民の「知る権利」のために存在したというのならばその機能性を否定することはできないだろう。
 核心部分になるのは、少年法の法の精神において、
更正を前提とした少年の保護があるだけなのか?
それとも、
更正以上に社会的弱者としての少年の保護があるのだろうか?
 この問題は、図書館、マスコミ含めて、少年法を再考察する良い機会になると思う。

 私見としては、少年法の法の精神には
「更正を前提とする」ものだけであり、
読売などの行為は違法性があるとは言い難いが、モラル的な問題で死者の尊厳を傷つけ、加害者周辺への被害も含めて再考の余地があるというスタンスである。
もっと言えば、過激な報道合戦を行うメディアとそれを需要するミーハーな読者こそ問題があると思うものである。


「選挙制度」に思う
【2008/08/06 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(1)
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 選挙とは民主主義の屋台骨になる重要な政治意思の表明手段である。
今回は理想の選挙制度とは何か?という困難な命題に関して、考察したい


オストラキスモス

 選挙の歴史は古い。古代ギリシャにはその原始形態になるものがある。ただ、近代のいわゆる選挙の慣習とは違うものがあり、今回は現代の普通選挙という形態をベースとした「理想の選挙制度」を模索することにしたい。
<陶片追放>
独裁政治家になる危惧のある政治家の名前を記入し、一定数以上になった政治家は公職追放になるシステム。共和制を至上とする古代の政治思想から生まれた逆説的な選挙システムの実例


チャーチスト運動<チャーチスト運動>
普通選挙制度確立以前は財産によって選挙権が分かれた。
平等選挙(一人一票)
秘密選挙(無記名投票)
普通選挙(年齢以外の要因において制限事項を設けないこと)

上記の近代選挙の三大要素はおそらく多くの民主国家で保障されている権利で大枠理論的にも大きな問題なく実行されていることである。
補足しておきたいのだが、定住外国人の選挙権(参政権の一部)は、普通選挙制度において認めるのが額面上の解釈ではある。
そして、上記の三大原則に付随して考えるべきは、自由選挙である。自由選挙は選挙行動の是非の問題であり、「投票しない権利」「棄権する権利」「白紙投票の権利」というものである。
明文化されているものではないが、解釈上は自由権として想定されるべきものではないだろうか?
<選挙区制度>
 日本の選挙区制度は非常に特殊なケースが多い。
厳密に大選挙区制度の定義ができるわけではないが、
一つの選挙区に1人選出する小選挙区

複数人選出する大選挙区(全国区が大選挙区という人もいる)
に分岐するのだが、日本は3~4人を選出する大選挙区の亜流である「中選挙区制度」を1928年の治安維持法以降適応されるようになった。
この中選挙区制度が大選挙区とは言えないのには、1人選出の選挙区がまま生まれることがあり、政治的な背景を元に選挙区割が決められたという要素もなくもない。(小選挙区制度は定数人口当たりの選挙区区割りをすることになる、日本の場合は10万人選挙区)
 結論から言えば、理想の選挙区制度は存在しない。それは、どの選挙区制度でも、一長一短があるからであり、
問題は、目指すべき国政戦略や国政ヴィジョンなどの因子によるからである。
各選挙制度の利点、短所を踏まえて現状に適応した選挙制度であることが「理想」というに相応しいとは思われる。
冥王星個人は大選挙区制度か、中選挙区制度に戻すべきだと思う。
モダンタイムス、ワレサ、木村屋ジャムパンの三氏は中選挙区制度支持派

ここからは、選挙区毎の特徴を解説したい
<小選挙区>
 死票が多く一票の格差が出る傾向が強い。
単純明快で大多数意見が汲み入れやすく政治が分かりやすい。
(補足)論理的に言われる二大政党制にシフトするという傾向が実際、第三政党の出現が大きな影を落とすこと、事例をみれば、二大政党制にシフトしないなど、メリットと言われたものの効用が論理的にも崩れつつあるのも特徴である。
<大選挙区>
 死票が少なく一票の格差問題はない。
多くの政治見解の被選挙人が立候補しやすく多様な政治議論が可能である。
しかし、選挙費用が膨大化し、ネームバリューによる当選、有権者との距離がある、多数政党の乱立などの問題を孕む
(補足)現代の世界の政党政治の潮流を見ると、多数政党の乱立状態であり、例外的なのは英米のみである。同時に、ネームバリューによる当選は衆愚だという指摘もあるが、有権者との距離感、政治への関心が高まることの意味を考えると否定するだけの要因でもない
冥王星の個人的な皮肉で言えば、
すでに日本の政治は衆愚なのだから、衆愚を自覚できるような大選挙区制度にして国民の政治責任を自覚できるような状況を作り出す必要があると思う。
選挙区制度
死票の少ない事例
◇岡山2区(定員5人)=候補者名はいずれも実名(1993年)  
当 橋本龍太郎(自民)15万票    
当 村田吉隆(自民)  6万票
当 石田美栄(無所属) 9万票       
  水田稔(社会)    5万7000票…死票
当 加藤六月(自民)   8万票        
  田中政利(共産)  2万票…死票
当 貝沼次郎(公明)   7万票        
 15%が死票
◇岡山2区(定員1人)=候補者名はいずれも実名 (1996年)
当 津村啓介(民主) 8万8000票
  萩原誠司(自民) 8万6000票…死票
  尾崎宏子(共産) 1万4千票…死票
 56%が死票
 参考URL
小選挙区制は少数意見を聞いてくれない
小選挙区制で政治はどうかわる?


 次に比例代表を分析するべきなのだろうが、
よく言われる多数政党の乱立という状況は日本では回避できているといえるとは思う。 まず、以前のような「スポーツ平和党」などの政党が議席を確保できた時代は確かにあったにしても、
今、比例代表で議席を確保できる日本の政党は数は少ない。
比例代表なしには議席を保持できない政党もあるが、それにしても、総投票数の2%を軽く凌駕している。
どのくらいの政党が存在すると乱立というのか?は不明だが、
アナウンスメント効果が大きい現代の政治において、メディア的に目立たない政党は比例代表でも議席確保がそうそう可能ではない。
諸外国の比例代表も乱立というほど政党が議席を確保しているわけではない。比例代表のデメリットの乱立というのは杞憂というべきだろう。
 ただ、政党政治が政治の基礎である、という前提とも言える比例代表制度は
「本質的に正しいと言える」とは思えない。
政党に属さず、政党の拘束を受けないで独立した政治行動をできる政治家こそ、真の政治家だと思うのだが・・・・・・・


 <ここで私見として、問題点を2つあげたい。
 現代政治システムにおいて、行政権の拡大化が基本的趨勢であるが、
・議員内閣制度では、国民と行政首長の関係性、因果性が希薄であり、首相公選制度を踏まえて、間接民主制度に対する疑問視をもつべき、であること
政治意識の高まりにおいて、明確に上記の自説を立法化するシステムとして、
直接民主政治の構築があっても不可思議でもないし、
国政参与としてもっと開かれた政党政治の枠組み、意見発露、政治反映のシステムを構築するべき、だということ
この二点である。
日本の政治意識の高まりは、安保闘争時代、政治汚職事件が多発して55年体制打倒機運の時期と、状況はあったと思われる。
しかし、国民の意見発露を受け止める政治システム、政党がなかったという現状があると思われるのである。
期待から失望にシフトし、国民的関心が逓減することで、悪政が可能になる、また関心が逓減すると、悪循環になることが現代政治ではないだろうか?
 上記の問題を鑑みて、
私見ではあるが、ネットによる立法議会(国政、地方二分化して地方からテストする)、審議だけではなく草案提出までできる国会審議前の直接民主議会を提案している。
 要は電子投票システムが採用される(ロシアなど)時代であり、ネット社会での政治意識の高まりとその便意性、空間的制約の無さを鑑みれば、
ネットによる国政、地方政治の公聴機会、審議前審査はあっても不思議ではない。
あくまでも決議は代表者によるものだろうが、まずは、
決議採決前の段階での直接民主制度を想起するに問題があるとは思えない。
機密性の問題はあるが、現実の政治行動の機密性の程度よりは、まだ技術的な可能性はあると思われる。
以上は私見なのでスルーしてもらいたい。

さて、ダラダラと私見を出したが、結論からすると、私の理想の選挙制度は以下の通りである。
<定住外国人の参政権>
 地方参政権に関しては制限なく認め、国政に関しては原則は認めない。ただし、国籍取得、市民権獲得の制度を寛容にすること
<選挙制度>
 近代選挙制度の三大要素を踏襲、例外的に未成年者の代理投票権を容認する。(追記参照してください)

<選挙区制度>
 大選挙区制度のみ、一票の格差を1.5以内に収める選挙区制度にし議員定数は法理で決定するのではなく、人口の増減で決定する(有権者数ではない)
<選挙資金>
選挙活動は全候補者が決められた限度額以内で収めること、選挙資金は公的な提供はしない、経費報告を選挙管理委員会に行う(政策討論会については公的な出資あり)
<比例代表> 
 原則撤廃
<補欠選挙>
 各選挙区で発生した次点候補者の中から、辞職選挙区に関わらず得票率の高い候補を選出する。
<立候補者の選挙活動立会い>
 マスコミなどの第三者による監視(プライベートの拒否は認める)
<立候補推薦制度>
 立候補者は選挙区内の0.001%の有権者の推薦状を必要とする

ブログ内記事「二大政党制に思う」
ブログ内記事「政党助成金に思う」


今回は選挙制度を取上げました。今回は追記の方が・・・・・
本文読めば分かると思いますが、自分は直接民主制至上主義者です。ルソーの憧れたジュネーブの都市国家政治と同じように、一般意志を意識する人間なのですが、選挙制度として参照するべきは現代のものよりも、ギリシャ時代の民主政治の方が好きではあります。



追記
平等選挙について
 いわゆる未成年者などの選挙権のない将来の有権者の意志は表面化できないわけだが、少子化を鑑み、未成年者の保護者(戸籍上ではなく法理的な親権保持者もしくは、未成年者の委任状をもつ代理人)が、複数投票するシステムは個人的にはあり、だと思う。
図解すると
投票制度

代理人


定住外国人の選挙権問題 
 一般的に、諸外国において定住外国人の選挙権は各国の裁量権によって決まる。国籍が国民の構成要件であるという解釈での選挙権の付与からすれば、定住外国人は選挙権を認めるわけにはいかないのだろうが、法改正によって対応することになるであろう。
ただし、国政レベルで諸外国で参政権を認めている事例は存在しない。しかし地方参政権に関しては事例は多い。
これは、選挙権、被選挙権と分離して解説するべきだが、ここは割愛する。

現実的に、最高裁判例(平成7年2月28日最高裁判決)
「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関係を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって地方公共団体の長、議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。」
という判断が示されている。しかし、これは地方参政権の問題であって国政レベルではない。
国政レベルでの参政権の問題は、いわゆる国籍、国民という概念についての説明をする必要があるので割愛します。


「政党助成法」に思う
【2008/08/06 】   管理者一堂      トラックバック(0)   コメント(0)
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 「政党助成金」の是非について考えたい。
見解としては否定派なのだが、事実を提示した上でみなさん考えてほしい。
平成18年分政党交付金交付決定額(総務省より)
 この政党助成金の契機になったのは、政治不信(ロッキード事件やリクルート事件、佐川事件など)がベースにあり、
政府の諮問機関である第8次選挙制度審議会は、
「政治腐敗の解消および政治活動に必要な財政基盤の強化を目ざすために」
公的助成(税金の投入)が必要であると1990年(平成2)年に答申、これに基づいて制定されたのが政党助成法である。
 条文から色々問答してみたい
政党助成法
第一条  この法律は、議会制民主政治における政党の機能の重要性にかんがみ、
(1)国が政党に対し政党交付金による助成を行うこととし、このために必要な政党の要件、政党の届出その他政党交付金の交付に関する手続を定めるとともに、
(2)その使途の報告その他必要な措置を講ずることにより、政党の政治活動の健全な発達の促進及びその公明と公正の確保を図り、もって民主政治の健全な発展に寄与することを目的とする。
(1)まず、国が政党を助成するべきなのだろうか?
・政党というのは政治意思をもつ個人の集団であって、国家のためにあるというわけでもないし、国家横断的な政党も、アナーキーな政党さえもある。
むしろ、政党という権力組織に国家という権力組織が影響力を持ちたい、という国家の権力支配に帰結しえない思考だと思うのだが・・・
定住外国人で参政権のない人の税金まで政党に投下されることにもなる。
これは選挙権のない未成年就労にも同じことが言える。
(2)に関しては
・報告義務に関しては情報公開法の下、各政党とも官報に用途報告は行っているのだが、閲覧は可能であっても複写は認められてない現状である。

第二条  この法律において「政党」とは、政治団体(政治資金規正法 (昭和二十三年法律第百九十四号)第三条第一項 に規定する政治団体をいう。以下同じ。)のうち、次の各号のいずれかに該当するものをいう。
一 (1)当該政治団体に所属する衆議院議員又は参議院議員を五人以上有するもの
二 前号の規定に該当する政治団体に所属していない衆議院議員又は参議院議員を有するもので、直近において行われた衆議院議員の総選挙などの国政選挙で
(2)得票総数が当該選挙における有効投票の総数の百分の二以上であるもの

(1)に関しては新党日本、国民新党が目標としてあげた「5」という数字である。5人集まれば助成金を得れるわけだが、
所属する政党が見当たらない無所属議員が集って、お金目的に合従することは政党の機能性の否定にもなり、政党政治を希薄にするものであると思う。
(2)に関してもその2%の根拠が不明瞭であるし、ミニ政党支持者を軽んじるものであって、是認できない要素ではある。
同時にこれらの要件を満たせない政党が助成を受けられない根拠は何になるのか?

第七条  毎年分として各政党に対して交付すべき政党交付金の算定の基礎となる政党交付金の総額は、基準日における人口(基準日の直近において官報で公示された国勢調査の結果による確定数をいう。)に
(1)二百五十円を乗じて得た額を基準として予算で定める。
2  毎年分の(2)議員数割及び得票数割の総額は、前項の総額のそれぞれ二分の一に相当する額とする。

(1)何を根拠に250円と算定したのだろうか?
現実的に言えば、各政党の財政に占める助成金の割合は様々だが、2002年の政党の収支報告によれば、民主党、保守党、自由党は助成金の占める割合が80%を超え(保守党は助成金が90%以上)で、自民党66%、公明党19%となっており、政党によってその依存度が変わるわけである。
(2)議員数、得票率の差異というのは、郵政民営化選挙でも自民党、民主党の事例をみれば、逆転することもあると同時に選挙戦略、選挙環境によって大きな差異がある。議員数ではなく、得票率(比例代表のみで)でカウントするのが健全ではないだろうか?
そもそも、支持しない政党に税金が投下されることは問題がないだろうか?

同法の14条から20条までで助成金の用途報告を義務つけ、公開を盛り込んでいる
内容は条文を確認してもらいたい。
以下は、政党助成金に対する特別な見解である

日本共産党のスタンス
 日本共産党は、当初から政党助成制度に反対。
助成法の成立以後は、助成金の受け取りを拒否し、
九六年の特別国会以来、助成法廃止を提案しています。
国民がどの政党を支持するかは、一人ひとりの自由です。
ところが政党助成は、自分の納めた税金が自分の支持していない政党に強制的にまわされることになる強制献金制度です。
これは、憲法の保障する思想・良心の自由(一九条)をふみにじるものです。
また、政党助成制度は、本来国民に依拠して自律的に活動すべき政党のあり方をゆがめ、税金のひもつきにしてしまうもので、政党と政党政治を堕落させるものです。
制度の導入時、「将来的に企業団体献金を禁止する」「五年後に交付金総額を見直す」と説明しました。

補足するが、本来、日本共産党が得るべき助成金は、受け取る意思を表記していないため、全て他の政党に分配されています。
つまり、共産党の助成取り分はほかの政党で総割り分配しています。
二院クラブのスタンス
 (電話で質問)他党に山分けされるのを防ぐため、受け取る政党としての届け出を行い、交付額を確保したうえで交付請求をしないという“戦術”をとっており、その分は他党に流れず「不用額として会計処理されている」

まず、同法成立の背景からして、
企業献金などのグレーな資金の流れを止め、クリーンな政治にするというものがあったわけだが
政党報告を見ても企業献金などは減ってはいるもののまだ自民党では10%、民主党では2%(2002年資料)であり、
いわゆる政治家主催のパーティのパーティ券という手法での集金活動は逆に派手になっている、とも言われる。(非公式なパーティが多いので正確な統計が出せない)
本当に政党助成金はクリーンな政治に寄与したのだろうか?

基本的に日本共産党の姿勢は評価すべきものがある。
しかし、二院クラブのような手法もないわけではない。調べてみると、それに関してコメントがあり
志位和夫・共産党書記局長の話 
「(他党に税金が流れるのは)非常に腹立たしい。しかし、届け出をしたら制度を認めたことになる。共産党のせいで他党が得をしているのでなく、そもそも他党が税金山分けの制度をつくって実行しているわけで、そういう制度には参加しないのが当たり前。制度そのものの矛盾だ。」
という見解である。
制度そのものを否定するスタンスである政党の姿勢を否定しえないわけだが、なにか勿体無さを感じてしまう。
政党助成法の精神は100%間違っているとは思えないし、その方向性を打ち出したことを否定しない。
しかし、立法目的である「企業献金」などの問題がなし崩しになっていることを鑑み、同時に、参政権のない定住外国人、未成年納税者などの問題、政党支持の有無の問題含めて精査すると納得がいかない。
 政治はお金がかかるものではある。
しかし、お金をかけるのは選挙であって、選挙は政治ではない。「政治目的」という言葉の定義ができないが常識ある用途で助成金を使用してほしい、と思う。


 文末に個人的な疑問を・・
社民党の収支に借入の項目があるのだが、誰が貸してるのだろうか?日本共産党は年間で機関紙などの売り上げが290億円近くあるそうだが、そこまでの資金力の理由は?企業献金がNGで個人献金がOK?
一部の憂士が政党助成法の違憲審査及び賠償請求を求めて、裁判は起こしたのですが、敗訴です。まぁ、原告が不利益を被った、という判断は事実上できないわけで、司法としては、やりようがないとは思います。
冥王星、およびワレサ、モダンタイムス、木村屋ジャムパン、サンダーボルトスキュリューは政党助成法廃止の主張します。

「無防備都市宣言」に思う
【2008/08/03 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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「無防備都市宣言」というものがあります。
 冥王星は基本的には「武装平和主義」を掲げるスタンスであり、非武装中立を肯定しえないスタンスであり、この「無防備都市宣言」は理解に苦しむ。
 無防備、非武装中立の概念的なオリジンであるジュネーブ条約の該当条文は
<第五十九条 無防備地区>
 1 紛争当事者が無防備地区を攻撃することは、手段のいかんを問わず、禁止する。
 2 紛争当事者の適当な当局は、軍隊が接触している地帯の付近又はその中にある居住地区であって敵対する紛争当事者による占領に対して開放されるものを、無防備地区として宣言することができる。無防備地区は、次のすべての条件を満たしたものとする。
(a)すべての戦闘員が撤退しており並びにすべての移動可能な兵器及び軍用設備が撤去されていること。
(b)固定された軍事施設の敵対的な使用が行われないこと。
(c)当局又は住民により敵対行為が行われないこと。
(d)軍事行動を支援する活動が行われないこと。
 3 諸条約及びこの議定書によって特別に保護される者並びに法及び秩序の維持のみを目的として保持される警察が無防備地区に存在することは、2に定める条件に反するものではない。

まずはここまで、1、において無防備地域への攻撃の禁止、2において、無防備地域の構成要件を、3では、無防備地域内での自警の権利を認め、地域内での警察行政が保障されることを謳っています。
ここまでは大きな問題はありません。
 
 
4 2の規定に基づく宣言は、敵対する紛争当事者に対して行われ、できる限り正確に無防備地区の境界を定め及び記述したものとする。その宣言が向けられた紛争当事者は、その受領を確認し、2に定める条件が実際に満たされている限り、当該地区を無防備地区として取り扱う。条件が実際に満たされていない場合には、その旨を直ちに、宣言を行った紛争当事者に通報する。2に定める条件が満たされていない場合にも、当該地区は、この議定書の他の規定及び武力紛争の際に適用される他の国際法の諸規則に基づく保護を引き続き受ける。
 
 この文章の持つ意味が重要になります。
 実は今、日本各地で宣言されている「無防備都市宣言」は、法的には構成要件をみたしていないのです。
 ポイントは「敵対する紛争当事者に対して行われ」という箇所です。
今存在する宣言は平時においての宣言であり、まだ紛争当事者への通告が行われていないわけです。今、戦時でもないわけで、平時における宣言では、無防備地域の宣言は法的には成立しないわけです。
 本当に無防備地域となるためには戦時における宣言が必要であるということをまず抑えてください。
5 紛争当事者は、2に定める条件を満たしていない地区であっても、当該地区を無防備地区とすることについて合意することができる。その合意は、できる限り正確に無防備地区の境界を定め及び記述したものとすべきであり、また、必要な場合には監視の方法を定めたものとすることができる。
 6 5に規定する合意によって規律される地区を支配する紛争当事者は、できる限り、他の紛争当事者と合意する標章によって当該地区を表示するものとし、この標章は、明瞭に見ることができる場所、特に当該地区の外縁及び境界並びに幹線道路に表示する。
 7 2に定める条件又は5に規定する合意に定める条件を満たさなくなった地区は、無防備地区としての地位を失う。そのような場合にも、当該地区は、この議定書の他の規定及び武力紛争の際に適用される他の国際法の諸規則に基づく保護を引き続き受ける

 5は、紛争当事国が設定する無防備地域であり、6はその場合の地域の明示方法について言及し、7では、無防備地域が解除されても戦時国際法に順ずる扱いであることを述べている。(5,6,7は紛争国の権利であり、住民からの政治行為ではない)

これが無防備地域に関する基礎的な法的な枠組みです。
しかし、この地域運動の条例化には国内法的なハードルがあると言えます。
まず、:地方自治法1条において国防の管轄権は地方に存在しないこと、同時に、兵権がないため、2の無防備地域の構成要件を自治体の責任で満たすことはできないこと、武力事態法3、5条によって国との国防事由の協力が明記されていることから、条例そのものが国内法違反になり、条例として成立しえないということが考えられます。他に刑法における内乱罪77条、外患誘致罪82条、外患援助罪83条も該当するもので条例として成立しても、国内法で取り締まることも可能になる。つまり、無防備都市宣言条例そのものが条例として成立しないということです。繰り返しますが、条例として成立できない、宣言として成立していない、という二重の意味で成立しえていないわけです。無防備に対するその気概は否定しえないのですが、法治国家としての地方としては成立しえないことは問題です。もちろん、地方自治の自由の問題を緩和したとしても、平時に宣言することには意味もないわけです。
 さて、次の段階です。実例を踏まえてお話します。
 第一の問題として、戦時国際法は遵守される保障が極めて低いことが例示できる。イラク戦争の時でも、明らかに交戦意思のない兵員に武力が行使された事例もありますし、アルグレイブ刑務所での捕虜の取り扱いも明らかに違法だと言えます。そもそも、国内法が一般の法理と違い遵守される土壌が浅く、戦時国際法になるともっとその精度は落ちるというのは、有事としての事実ではないでしょうか?
 同時に、条約としてのジュネーブ条約はあくまでも国家が基盤であるわけで、テロ組織などはこの条約の限りではないと言える、つまり、テロ組織は国際法を守る法理ではない上に、ジュネーブ条約で制限される対象ではないのである。こうして、無防備地域は侵されるというのが推測が可能なのであるが、実例になると、成功例が極めて少ない。
大東亜戦争時代の前島、WWⅡにおけるナチのパリの事例が有名であるが、無防備宣言に関わらず戦火に至ることは推測できない事例で、それ以外は、宣言そのものが守られた事例が極端に少ないと言える。正式な数字は戦時のもので判明しないが、多くの宣言は無視されるしかなかった。
現実的に無防備地域が守られないでは、絵に描いた餅であることは言うまでもない。国際情勢が国際法遵守になれば、それで解決するわけだが、世界はそこまで理性的ではないことも残念ながら想起するしかない。

ただ、一概にこの「無防備地域」を否定する必要はないと思われる。条件を満たせば、宣言は有功であるし、国際法遵守の気風が戦時でも生まれるようになれば、この条文は否定するものではないし、正しく法理に基づけばそれは否定しえないわけである。問題は成熟しない国際社会と地方自治の裁量権の問題なのかもしれない。将来に期待することもナンセンスではないと思う。
ただ、簡単なことながら、特定の地域が無防備地域になるとその領域内での軍事行動が全て行えなくなるわけである。地理的な要所が無防備地域になると行軍ができなくなる、これはつまり無防備地域の権利のために、自衛行動の自由が制約されることになるのである。国内一致して国防に力を注いでる一方で戦時に無防備地域化した地域のために、潤滑な軍事行動ができなくなることの危機感を考えると、やはり考えるべきものがある。
 可能であるならば、無防備地域宣言を想定した住民だけの地理的に国防に影響の少ない地域への移住をしてくれればいいんだが、そこまでは期待するのは酷なのかもしれない。
 私は、武装非同盟や武装中立の姿にリアルな平和主義を見るわけで、力なき平和を信じられない、わけで、そこで思考停止なのかもしれない。
 ただ、ここで私はこの宣言に関わった人に言えることとして、平時における危機意識があるからこそ、このような運動になったことを評価したいと思う。ただ、その方向性の差異でしかないわけで、相互理解の上で宣言を撤回してほしい。


「二大政党制」に思う
【2008/08/03 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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記事内のユーザータグ    国内政治   

二大政党システムに関しての評価には、論理的なアプローチが多くされているが、一方、現出した政体としての研究がどれだけ厳密に日本で行われてるのか、という疑問の余地がある。
 モデリングされた二大政党制というのは、いわゆる机上の空論である。
現実的な政治意思が複雑怪奇かつ魑魅魍魎であることも踏まえてみれば、理論崩れでしかないというの見地である。
 一般的に二大政党制は政権交代が行われ政治的流動性があり活力に富むものだという見解があるが、これに関しても昨今はブレがあるといえる。
 遅効性の政治政策の評価をするには、ある程度の評価スパンが必要であり、そのスパンは政策内容によっては半世紀を要するものさえある。(地方自治、都市開発、社会インフラ整備など)
 これらの遅効性政策の評価よりも、即効性政策が重んじられるのは、政治に速度を要求する現代に強く指摘されることである。
 つまり、現代の政策評価というのは、即効性あるものが注視される傾向になり、遅効性ある長期スパンの政策評価が有権者にされにくい、という評価になると思われる。
 日本の政権交代の速度は異様さがある。
 二年で首班が据え変わるようでは、遅効性ある政策立案などでできるわけもなく、即効性ある政策が評価に上るとしか言えない。
 このような前提から、まずは、政権交代の速度をまず精査して考えるべきであると思う。
 事実として言及するに、日本は政権交代が行われた経緯があるわけである。たかが50年少々の政戦後政党政治で二度も与党が変化したわけで、これを鑑みて、二大政党制だけが政権交代が可能という理論は構築しえない、ということである。日本だけではなく、諸外国も政権交代は二大政党制にならずとも実現している。多数政党による緩やかな連立政権という形態は別項に譲る。
 二大政党制はスタンダードか、という疑問に関しては、まずマイノリティであると言い切れる。
アメリカは典型的に二大政党制であるにしても、伝統あるイギリスは社会民主主義の濃い労働党を含めた3大政党で成立している。その他に二大政党制の名残もないのが現代の世界レベルの政治体制である。
 世界に数多くの国家があれど、アメリカのみが二大政党であることは理解されてはいない。日本のアメリカ追従についてはここで語るべきことではないが、アメリカスタンダードが日本にも合致しえるとは限らないことも想定すべきことである。
 アメリカが二大政党制にシフトした過程を考えると単純に新興政党が既存政党に有権者支持を得れなかった背景に、内的束縛(ヘゲモニー)を考えることが可能である。ただ、一番にいえることは、共和党、民主党とも政策において近似してる事実よりも、微細な部分では政党内一致をみないでいることが、二大政党制がブレない背景にあると思われる。つまり、共和党、民主党とも少数になる政治的意思の有権者も取り込めている、という評価である。政党として、悪く言えば、曖昧であり、良く言えば選挙に勝つためにフレキシブルという評価が妥当だと思われる。
 比較して諸外国の政党は総じて、論理を優先し、政策的ブレ、触れ幅が大きいわけではない。むしろ、統一性をもって支持と取り付ける正統的結束を魅力とした政党アピールとも言える。(もちろん、第一に政策ありきではある)
 さて、長々と二大政党制の模範としてアメリカを触れたわけだが、日本でも二大政党制時代があったことはあまり議論では触れられていない。立憲政友会、立憲民政党が該当する。この二つの政党は交代に政権を担ったと思われるが、これは交代というよりも、政友会優位で進み、空白を民政党が政権を担当したというべきものだといえる。この二大政党制の後に日本は戦中世界に突入するわけだが、二大政党制を語る人でこの話は案外避けられる傾向である。
 (著者はまだ自公連立を見ることなく亡くなった人であるが)
 純粋な二大政党が維持するシステムは、確立し、不動に近い二大政党でないと維持できないと想定する。戦略的投票行為によって、有力な第三政党であっても政権獲得できないことに、死票、という認識に至ることがある。これは自然なことだと言えるが、スタンスの問題である。日本において考察するに、自由民主党、新進党、公明党、共産党、社会党、その他、小規模政党が現状にあるが、離合集散の上、公明党、社会党、共産党という既存の左派政党と、自民党、新進党という保守枠、に収斂すると予測される。選挙制度次第であるが、この5政党が滅びる可能性は少なく、原型を残すコアな論理、支持者がいることから、推測に難くないことである。ただ、通俗的な二大政党であればいいのだが、二つの有力政党の政権争いの上で第三政党が政権運営のために、蠢動し第三政党の政治意思が露骨に反映されることも論理的にも現実的も言える。日本もその形態になるだけの要素があるわけで、二大政党制になるための試練になるかもしれない。(注釈:アメリカの二大政党制は模範的なシステムで投票行動において合理的には二大政党しか選び得ない環境が形成されると氏は論じている)
 二大政党制における利点の一つにシャドウキャビネットを指摘する人もいる。しかし、ディスクローズの進んだ国家においては、十分、対論によって審議を図ることは可能であるが、現状の日本の情報開示レベルでは政権与党の方が情報量的に優位であるのは覆らない。もっと言えば、野党は推測の域を出ない資料で対論することになる。これは政治的に突き詰める問題であっても同じことで、二大政党制ではなくこの問題は起こりうるわけだが、期待される二大政党制はその失望が大きいのは予測可能である。


 最近では二大政党制を叫ぶ人もいなくなったわけだが、一時期はかなり民主党支持者に多かったことを思い出す。
 個人的には、氏の指摘する多数政党連立政権のフレキシブルさを評価するスタンスであり、活発な議論のために政党は多くてもいいと思うわけだが、アメリカンスタンダード病に冒されている日本人には、理解できないものがあるとは思われる。 
 




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