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鳥龍茶(にゃおろん茶)より「チベット宗教界の実態について」
【2008/10/12 】   冥王星      トラックバック(0)   コメント(0)
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 「鳥龍茶」(にゃおろん茶)戦前のラサの様子 から
 この記事は戦前のチベットの女性とラサの宗教世界の関係についての記述である。
 これを追随するような記述が司馬遼太郎の「ロシアについて」に記載がある。
新婚夫婦に対して、新郎が新婦と初夜を迎える前に、チベット坊主が新郎よりも先に処女をいただき、そして性病を蔓延させる。

2チャンネルにこんな記述があった
ラマ教にあっては、男女合体の「妙適(エクスタシ)」像をあがめるだけでなく、
ラマ僧自身が初夜権をもつ。
ところが、ラマ僧に梅毒を保菌している者が多いため、このことが人口増加を衰えさせる結果になった。
ロシア人がシベリア征服にあたって、女性が不足していたが、
ラマ教を奉ずる民族の女たちに触れるのを怖れていたのは、一つは性病のためであった。

マルコ・ポーロの「東方見聞録」の時代にも”初夜権”が取引されていた記述があり古くからの慣習と解するのが妥当かもしれない。(13世紀の記述)
 誤解されたくないのだが、このような慣習を現代社会的倫理観で判断するのは問題がある。
なにより、チベット社会には中国が侵略するまでは、人権という概念すら存在しない社会であり、国際社会から隔絶していた社会という理解が妥当である。
(ある意味では、チベット人は中国侵略によって「人権世界」を知ることになったのである)

 「初夜権」という概念が民俗学的に確立していると言えるのは、異常なことではなく、社会秩序として女性がムラ・地域の共有財産とされた時期の合理的税制という側面がある。
 簡単に言えば、部族社会もしくは宗教基盤とした寡頭政治においては、部族単位の財産権が一般的であり、私有財産制度はない。女性も部族の財産であり、その財産権の管理者が部族長である。
 婚姻制度は宗教的夫婦契約を前提とした家族社会の出現によって(家族法)確立するもので、文献学的古代社会は、女性は財産としての取り扱いを受けることが多いのである。
 そこで、部族長は部族の健全な維持のために人口調整政策を実施する必要性が発生する。
 部族人口が肥大化して餓死者を出さないにしても、他部族の侵攻に対処できるだけの兵士と財産、総じて言えば人口調整が部族長としての重要な意味がある。
 古代社会の婚姻は非常に自由で大らかで必然的に乱交状態に陥る可能性が高いことは、共和制ローマやギリシャ社会を見ても分かることである。
 社会維持のために部族長は部族財産である女性を政治的道具にする必然性がある。
 そこで発生したのが、「初夜権」の一つである。
 それを助成するような宗教的背景もある。
「初夜権」は迷信の類にしても「処女と性行為をすることは災難を招く」という信仰は様々な文献から見られるのである。
「フィガロの結婚」などは具体例であり、”エドワード1世の初夜権解放”などの歴史は史実ではないと断定するだけの要素もない。(存在したという断定要素も希薄ではあるが)

さて、親記事には批判的に
「聖地ラサも、その裏は以上のような性道徳のかけらもない、ただれきった街なのである。」
という指摘があるが、現代社会における価値観であることをまず前提にして考える必要性があるが、問題点は初夜権などの豪放な性関係から発生する性病の問題である。
 統計の信用性もあるが、ジョージ・パターソンという冒険家の記述では、1950年代のチベットの女性の90%が性病感染者であると語られている。
 中国のチベット侵略が本格化した時期と重なるのだが、中国軍が原因で性病感染者が90%になったというには、あまりにも短絡的な指摘である。

 それ以前の性病感染率の数値が無いので比較できないが、逆に中国解放軍が侵攻してから性病感染率が下がったという統計もある。(「中国はいかにチベットに侵攻したのか?」より)
 原始的神権政治のラサ周辺・高山性遊牧社会のチベットの多くの地域は部族制社会であり、神権政治の奴隷制社会という見方が妥当である。
 奴隷制社会といっても、緩やかな奴隷支配でありイメージするならば共和制ローマの農奴である。
(近代欧米列強の奴隷は過酷な労働環境を強いられたが、古代の奴隷は財産としての価値があり近代の奴隷とは違い自由が広くあった)

 自由な恋愛・性事情の背景で蔓延した性病の結果、チベットの人口増加は見られない。地球規模での温暖化時代だった中世は総じて食糧問題が改善した時代であり、チベットも人口増加しているはずだが、その傾向も統計もないのが不思議である。
チベットは常に人口動態として生産性以前に生理的問題を抱えていたという可能性が高い考えられる。
 ちなみに、チベット社会の実像がある程度、分かってくるになった中国当局の支配時代以前の統計がないのがもっとチベット問題を難しくしている問題であるが
チベット自治区の統計局調べでは
「1950年のチベットの人口は100万人が2007年には284万人に達し、1950年より2.8倍に増加」したとある。
 世界人口の逓増は驚くべきスピードであるが、
 中国政府にチベット人が多く虐殺されているとしても2.8倍という数字は整合性がないと言える。
サイトによっては120万人が虐殺されたことになっているが、
1950年100万から2007年284万人という逓増から更に、120万人が虐殺されたというならば、実質的には400万人の人口であったという話になるだろう。
つまり、人口増加率400%というチベット人口増加は単純に近代化と言えない部分があると言える。
4倍近い人口逓増はそれこそ世界人口統計からしても特異であり、むしろ、1950年以前の人口動態に問題がある可能性が深い。
 チベット男性の性病率の統計がないことが論理的正当性を確立できない最大要素であるが、女性の性病率からすれば必然的に男性の性病率も高くなるものだろう。
 その背景もあり、チベットの人口は常に低い水準であったことは予測可能なことである。

 さて、民俗学的見地から言わせて貰うと、チベットの「ただれた性事情」と言われる論拠は多々あるのだが、それを立証するような傾向がある。
 仮面舞踏会(マスカレード)とアヘンである。
 この二つは性的倫理観を逸脱した社会にしばしば見られるものである。
 チベットには、「ラモ」という仮面舞踏がショーステージ化しているが、それは古代の神権政治の祭事で行われる仮面舞踏とは違い、聖職者が好んで催していたことが伝えられている。
 同じようにチベットは有数のケシの自生地域で青い色のケシが咲くことで有名である。(東チベットは自然自生できる中国でも数少ない地域である。)
誤解を恐れずに指摘しておくが、基本的には漢民族の居住区ではケシは自生しない。
中国は英国の支配下の時代にアヘンで苦しむ歴史的悲劇に合うが、中国はケシが自生しないからこそ貿易が成立したことは重要な視点のはずである。
 しかし、残念ながらそういう中国の背景も知らないチベット人権論者は
「中国人民解放軍がチベットに麻薬を持ち込んだ」などと言い出すから難しい問題がある。
NHKスペシャル「調査報告 日本軍と阿片」(8月17日放送)でも指摘されたことだが、大東亜戦争当時に中国本土で日本軍がケシを栽培させていたことは間違いないことであり、
これは台湾でのアヘン対策に成功した後藤新平の政策を踏襲したような評価があるが、生産量管理ができない流通管理もできない当時の中国の現状を考えれば、台湾の実例で正当化できるものではないのは言うまでもないだろう。
 後藤の漸次的禁止政策(漸禁政策)は厳密なアヘン管理とアヘンによって得た利益を台湾のインフラ整備に活用したからこそ賞嘆されるものであって、中国支配の日本軍の戦費としてアヘンが使われていた部分は、アヘン戦争のイギリスと大差ないものである。
 もっともイギリスはアヘン戦争当時は、議会でも相当な議論と反論でアヘン戦争が論じられ、イギリス人にとってはアヘン戦争はイギリス歴史の恥部となっている。

 習俗的な部分でチベット世界は現代的価値観から見れば、とても許容しえない社会であったわけだが、それは別にいいとしても、中国政府批判の内容の論理的正当性の希薄は否めない。
 性病、人口、アヘンと中国が侵攻して判明した問題点があるのは明白だろう。
 未だに、古い習俗で生きる部族があるが、彼らを現代社会の価値観・倫理で我々が批判するのは問題があるのは言うまでも無い。
 むしろチベットの近代化という意味で中国が果たしたことの意味は否定しきれないものがあるだろう。
 仮にチベットに中国が侵攻しないままであれば、チベットの不健全とも言える社会風習が跋扈し、中国当局の支配以上の人権問題を孕んでいたことを知る機会もなかっただろう。
むしろ、チベットの実情をぼやかすために、中国政府を批判するのが、ダライラマ14世とカンポデンタンの目的かもしれない。
  断定するのは非常に問題があるが、そもそも仏教は女性蔑視的価値観がベースにあると言える。
 お釈迦様は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。その九つの悪い属性とは何か。女は、1、汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで、7.怒りっぽく、8.おしゃべりで、9.軽口であるということである。
[増一阿含経,第41巻,馬王品] 

女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。[…]この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。
『転女身経』より

 ラマ教世界は仏教がベースである。こういう価値観であるラマ教世界を多くの市民がどのように見つめているのだろうか?
 ダライラマやラマ教は非常に神聖視されていると感じる。
しかし、現代のダライラマ14世がこのような因習については存在しなかったような言説を行っていることは非常に「人権擁護」の部分からしても問題があることは指摘の余地はないだろう。
 さて、よくチベット人権論者が主体的にラサ周辺社会の現況についてのコメントは発しますが
実際にラサ周辺以外の広大なチベット高原の部族を取材した事例はほとんどない。
 仮に取材したとしても取材拒否するか・古代国家的な社会秩序を提示することが困難である部分があるだろう。
 私の知己でもあり人権活動家のIRC職員が私的要件(青いケシの写真取材)でウ族という部族の取材をした時によくそれを象徴した話があったそうだ。
 当人の話を整理すれば、冥王星のチベット認識に大きな齟齬がないのだが
1.ウ族を始めラサ以外のチベット高原のチベット人はラマ教信者でもないない人間が相当存在する
2.ラマ教信徒であっても現在のポタラ宮殿の世俗的ラマ教を信用していない・信仰していない
3.ダライラマへの圧倒的不信感と中国政府の取り扱いの違いのどちらにもつけない
4.富を独占しているラマ教聖職者は中国を出汁にして更に利権を獲得しようとしている
5.ポタラ宮殿を中心としたラマ教の政治支配は伝統的チベット部族社会の崩壊に帰結する

 中国の人権蹂躙という見解は、確かに自由主義陣営の価値観からすれば「人権侵害」ではあるのだが、それ以上に、チベット民族がラマ教支配を嫌悪しているのは否定できない事実なのだろう。
 仮に彼らがチベット部族少数派であろうとも、彼らの言い分は理屈が通る部分があるのは言うまでもない。
 そもそも、現代の国際政治は、政教分離の政治原則を見失っていることも問題提起されるだろう。
仮にダライラマの政治的指導力が強かろうとも、政治と宗教の分離は世界の民主主義の基準とも言えるだろう。
 それすら蔑ろにしてチベットの民主主義を実現しようとする民主主義に欺瞞があるのは事実ではないだろうか?

さて、あえて誤解を解くためにもいくつか整理しておくが
いつか、問題点あるチベット問題の記事を取り上げて問題提起した上で論説を加えたい。
「ぼやきくっくり」大高未貴さんチベットを語るより
<>は引用した問題文章である。
<野口 チベットはかつて、れっきとした独立国でした。>

説明するまでもないが、”独立国”という定義論をしないで「独立国」を騙ることは簡単である。
沖縄も独立国であったと言えるし、古代の伊賀地方は朝廷支配を逃れていた独立国であったと言える。
独立国であることが、「国家」であることを規定するわけでもないのであり、「独立国」であった事実は重要ではないのである。

<大高 明の皇帝がチベットが独立していたことを認めた遺跡も残されています。しかし、1950年に中国人民解放軍が侵攻し、民衆蜂起したチベット人の流血をこれ以上増やさないため59年にダライ・ラマ14世は、インドに「亡命」、ダラムサラに亡命政権を樹立しました。>

 この説明も独立を認めていたという規定は存在していない。
仮に遺跡として残されていても、それを相手政府なりが認知しないと政治的に成立しないことも当然のことでしょう。
「国家」であるための要件に関しては語る必要性もない基礎知識であるが、そこらを抑えている識者の文章ではないことは明白であるし、感覚的説明にしても、まったく説得力のない説明にも関わらず、読む側が問題意識を持っていない。
 仮に、沖縄が独立国家であるために、「独立を認めたという記念碑を作った」ということで、独立国が規定できるなどはそれこそ妄想であるし、東京都が日本国からの独立記念碑を立てれば、独立国になりえる、という論理には政治的説得力がないのはすぐわかるだろう。
「国」という世界観は当人によって確立するような簡単なものではないことに思考が及ばない部類の知性はむしろ恥ずべき部類であろう。

<大高 チベット文化に秘められた英知は、人類の無形財産ですが、悲しいことにその伝統は、亡命政府があるインドのダラムサラという小さな村にしか残されていないように感じました。ここには、政府の省庁のほか、チベット仏教論理大学や医学・暦学研究所などがあり、チベット文化の緊急避難所になっています。生活は決して豊かではありませんが、人々は目があうと微笑で応え、たおやかな時が流れていました。ダライ・ラマが説く慈悲の生き方を実践している人々が多いからだと思います。>

これらは非常に狭量な価値観が明確化されているのは理解できるだろう。
チベット世界はポタラ宮殿を中心とした世界で形成されているような世界観である。
これはチベットのすべてのエッセンスがラサに集積されているという誤解を誘導するものである。
確かにラマ教の中心地としてのラサの価値は否定できないが、チベット文化はラサ以外にもあり、現在のチベット民族が多数を占めるブータンにもチベット文化は存在しているのである。
チベットを知らない人はこのレベルのチベットを「知ったか」している人間の「ラサ世界だけでチベット」を論じていることへの危機感があって然るべきはずなのだが・・・
 これは、日本は神道・仏教の国というイメージから京都や奈良だけで日本を論じる外国人と同じことであることも理解していただけるだろう。

<大高 ダライ・ラマが亡命前に住んでいたポタラ宮やチベット人が一度は巡礼を夢みるジョカン寺院などの建物はあります。しかし、中国政府が観光収入源として残しただけの魂の抜けた空疎な建物と化しています。>

中国政府の観光収入ではない(そもそも中国政府ではなく自治政府の財源になっている)し、そもそも「ジェガン寺院」という名称を使うことから素人さが伺えるのはまた別の話である。
 ジェガン寺院ではなく「トゥルナン寺」であるし、ジェガン寺院は巡礼地ではない。
巡礼=「コルラ」という行為であり、これは仏教とボン教ではやり方も違うし、そもそもチベット仏教=ラマ教においては聖地としての格付けはカイラス山の方が格上である。
 しかも、このトゥルナン寺は中国皇帝の娘さんである「文成公主」をお迎えした寺院であることから中国に由来があるから皮肉な話である。
 仔細の間違いは仕方ないにしても、まるでラサ以外にはチベット文化たるものがないような言いようには、ボン教のチベット人に対する無礼な物言いであることを糾弾するべきだろう。
 同時に、「カイラス山」というチベット仏教最大の聖地が今、中国政府の開発の危機に瀕していることも触れておくことにする。

<大高 寺院には「愛国再教育」なる名目で、工作隊が送り込まれ、チベット独立反対やダライ・ラマ拒絶など、チベット民族主義の「弊害」を教えています。これに反する動きをすると即、収容所行きです。むろんダライ・ラマの写真は一枚も飾られていませんし、家庭で隠し持つことすら許されません。チベット語教育も「チベット語はチベット仏教そのもので毒。従ってチベット語も禁ずる」という理屈で禁止されています。>

 チベット民主主義の弊害は事実である。チベット民族が周辺社会にもたらした弊害は以前にも記述したが、チベット民族がチベット高原世界に留まる限りは無害であったにしても、チベット民族が周辺社会で軋轢を生んでいる事実を「危険」「弊害」と規定することは中国政府ならずとも、中央アジア通史をやっていれば理解できない話でもない。
ヒトラーの写真を飾る自由は法的にはあれども、一般社会では許容できないように、魔女狩り的なヒステリックな傾向は存在するのは事実である。
ウ族ドロン部ではダライとラサ世界を嫌悪していることは触れられない事実である。

<大高 神聖なポタラ宮から車で5分のところにピンクのネオンがともる売春街が広がり、郊外の広場にテントを建てただけの即席売春所もありました。公安警察の目をかいくぐり案内してくれたチベット人が「漢民族がチベットに持ち込んだものは売春婦だけでなく性病と麻薬の蔓延(まんえん)だ」とそっと教えてくれました。公衆便所の壁一面に「淋病(りんびょう)」「梅毒」と書かれた病院の広告が張られているのも見ました。>
 
 前述したが、初夜権を買占め、奴隷制社会に生きるラマ僧侶を我々の価値観で神聖視・できるものだろうか?
聖職者というイメージは不可侵である意味では、理解から離れることが多い。
キリスト教が宗教改革に着手するまで、異常とも言える社会を形成し堕落したように、ラマ教世界は閉鎖的である。内情を正しく伝えられる人間などいないが、決して彼らが純粋な聖職者と言えない部分があるのは、多くの指摘にある。
むしろ、見えないラマ僧の実態を神聖視しているメディア識者の現状に危機感を持つべきではある。
 前述したが、中国信仰以前からチベットには麻薬があった可能性は高い。そもそも中国でもチベット近くがアヘンの自生地であり、中国はアヘン弊害で苦しんだ国である。
 実際、チベット部族の老人ではアヘンを常習していたことは分かっていることであり、中国をやり玉にすることへの正当性はほとんどない。
 仮に日本軍がアヘンで中国戦線の戦費を賄っていた事実を考えれば、そこにも原因は推定できるだろう。

<野口 ダライ・ラマは平和的対話を求めていますが、中国政府は応じていない。ダライ・ラマが選択した非暴力主義は立派な考えですが、それではチベット人の迫害は止まらないのでは。>

軽薄な知識で、ダライを「非暴力主義者」と規定しているが、彼は決して「非暴力主義」ではない。
 チベット世界は中国との闘争を繰り返し、アメリカの軍事支援を受け続けていたし、その背後にダライの指示がないとは言えない。
 同時にダライはインド亡命という行為で中国とインドの関係悪化を助長し、中国国境線の治安悪化の要因を彼自身が創出している。
 もし、彼が非暴力主義であれば、チベット民族自身の抵抗運動として武力闘争をやめるように主張するものではないだろうか?そして、彼は近年まで武装闘争をやめるような声明を出してきたわけではない。むしろ最近になって非暴力イメージを動因させていることは歴史が証明している。
 ガンディー氏の徹底した非暴力主義は、自らの武装解除であり、政治的妥協を引き出すに至ったものであり、チベットのダライの非暴力は決して、非暴力と言えるものではないだろう。

<大高 チベット再建を志す精神的武装トレーニングを、実は日本を参考に進めているのです。ダライ・ラマの居住地内に柔道場があり、警護隊が武道のけいこをしています。ダライ・ラマの広報官のルントク氏は、柔道を奨励している理由をこう説明しました。「13億人の中国に対し、チベットは600万人。軍事・経済力で圧倒的に不利な闘いに勝利するためわれわれは日本の武士道精神に目をつけました。日本はさきの大戦で敗れたにもかかわらず、短期間で経済大国になった。復興への精神力があったからです。われわれもダライ・ラマの唱える非暴力の抵抗を支える精神力を柔道で養おうとしているのです」>

新渡戸稲造の「武士道」が現代社会の精神性にどれだけ生きているのか?
という問題提起は当然必要だろうが、こういう記事の軽薄さは仕方ないとしても、
チベット人は中国と闘うつもりであることを尊重しているのである。非暴力主義という実態は暴力行為の準備と共存しえるのだろうか?矛盾を感じるの方が異常だろうか?

<大高 亡命政府で「チベット女戦士」として有名なアマ・アデ女史に会いました。彼女は中国人民解放軍侵攻後、抵抗運動に参加し、58年、26歳の時に逮捕され27年間も監獄内で過ごしました。その監獄だけで1万2319人の死者が確認されている。新聞には書けないほどの拷問や性的虐待、強制労働に耐えたそうです。そういった証言は、インドやネパールの難民施設で、いくらでも聞けます。>

彼女の著作を読んだことがあるが、まったく裏打ちのない信用性のかける希望的観測が述べられているに過ぎないことも問題だが、ラマ教世界の人間であるからこそ、ダライ派であることは当然考えられることである。
そもそも、女史はダライ派であり、中立的ではない存在である。
彼女に関しては、非暴力主義思想ではなく武力闘争的な行為が存在していることも指摘しておく。
ちなみに、実際、ネパールの収容所で取材した結果はない。
「聞けますよ」というその先の取材など存在していないのである。

<大高 世界の人々がチベット問題を見て見ぬふりをし続ければ、大きな禍根を残すことになります。ダライ・ラマの実姉で、難民となった子供たちの学校の校長であるツエン・ドルマ女史が「戦争でどんなに建物が破壊され、人が殺されても国は滅びない。だが、その国の人々の魂が破壊されたとき、その民族は滅びます」と語っていたのが印象に残っています。>

逆説的に、ラサ世界を中心としたチベット世界の理解が「チベット問題」の全てではないことを彼らには問題提起されるべきである。
 中途半端な知識で「知ったか」で語るような彼らの言動は、チベット民族の全体像を歪ませるものであることも危惧されるべきである。
 そして、もっとも陳腐なのは「その国の人々の魂」という抽象論であるだろう。
民族という抽象的な世界観を述べることへの危機感は別にして、ラサ世界だけしか見えない人間に、「その国の人々の魂」という遠大なテーマを述べる能力があるのだろうか?
冥王星はこの手のチベット論者の見解を憤りを覚えるのだが、多くのチベット認識は、情報があふれるラサ世界であり、ラサ世界以外のチベット社会の群像はまったく視野にないのだろうか?

この程度の「知ったか」チベット論は数が多い。
彼らに突きつけると回答できない致命的な質問がいくつかあるが、もし回答しえる人がいれば回答してほしい。
①:チベット世界の代表者がダライを始め、ラサのラマ教にあるのか?
②:仮にラマ教世界の政治権限があるとしてそれをどれだけの人民が認めているのか?
③:多くの人民が認めているとしてその認証は民主的プロセスによって成立しているのか?
④:近代社会の政教分離の原則論を逸脱しているチベットとラマ教の関係は受け入れられるものか?
⑤:チベット世界はラサとポトラ宮殿を中心とした世界観である認知が正しいのか?
⑥:仮に⑤が正しいとして、ラサに反抗的な少数部族の意思は無視できるのか?
⑦:チベット人民とチベットという概念はどこまで明確化できるか?
⑧:中国世界が行った侵略行為の一方で、中国がチベット社会に投下した資本の逆賠償権利はどうするのか?(それをチベットが自弁するのか?)
以上のような重篤な問題点を解決できないまま、チベットの人権論が展開されていることに非常に問題がある。
「ダライを疑え」というのが簡単な主張なのであるが、
一般的チベット知識があまりにも偏向的であることは、チベット=ラサ世界という部分だけでも理解できる人は理解できるだろう。
 あなたのチベット理解は、偏向していませんか?そしてその理解はチベットの全体像をどこまで把握できた上での見解ですか?



さて、「初夜権」は少し注目するべき問題なのであえて深く言及しなかったが
「処女」という価値については、ある程度の説得力を感じるだろう。
世界各地の物語にある処女と神様の話などは共通的神話・寓話としてもまったく社会的に荒唐無稽であるとは言えないだろう。
自由恋愛という形式で婚姻という社会的制約が確立する以前は、「集団婚」という世界である。
「集団婚」とは、特定の組織内の女性の所有権・所属先がその組織内全体であるという婚姻体系であると考えてもいい。
 部族単位で女性を囲う世界というのは、乱交状態というよりも、むしろ人口政策的見地で必要悪だった要素もあるので、嫌悪しないでほしい。
 蛇足になるが、現代社会は、「集団婚」に向かっている可能性もある。
 不倫が文化になり、ジェンダー論が衰退し、女性が異性への選択権を強く持つという世界が本義あるべき姿である。
 女性は特定の男性との婚姻契約に縛られず、好みの男性と性交する・・・性向を持ちえる。
女性が性的主導権を握るという形体の「集団婚」の将来像は遠くないかもしれない。
もっとも、男女平等社会で男性が淘汰される方がある意味、健全な社会が到来するかもしれない。
ダメな男は淘汰され、いい男だけが社会の残る・・・・・・淘汰される側は天然記念物として動物園で保護されるような時代の到来を冥王星は期待している。w












 

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